◆湛山の「小日本主義」(石橋湛山論説「一切を棄つるの覚悟」)
◆終戦処理費の削減(保阪正康著「石橋湛山の65日」より)
「 | 石橋にとって、戦争の精算を行うという意味では、勝者や敗者の区別はなかった。 GHQの日本占領において使われる諸経費は、終戦処理費の名目で一般会計予算から支出されるのであったが、石橋はこの削減にももっとも積極的になった。 これが因となってGHQとの関係がこじれていった。(略) |
もとよりこの終戦処理費は、賠償の意味もあった。 日本に駐留するGHQの宿泊施設、その軍事的駐留費などが、日本の財政を圧迫するのは目に見えていた。 石橋はもともと戦後の日本社会にインフレが起きるとするなら、第一次大戦後のドイツと同様に過大な賠償金によるとの持説があり、それを財政の責任者としてもっとも恐れていた。 |
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大蔵大臣に就任して四カ月ほど経て、石橋はこの終戦処理費について大蔵省の立場から具体的な調査を行ってみた。 | |
すると進駐軍の各種工事は外務省のルートで行っていて、まったく監督が行き届かず予算の使い方が杜撰なことが分かった。 地方では、地方に駐屯する進駐軍が地元業者と直接交渉を行って勝手に工事を進めているのである。 いずれのケースでも業者が税金をくいものにしている実態が浮かびあがってきた。 こうしたムダの中には、将校の宿舎やゴルフ場などの新設も含まれていた。 『こんな状態じゃ日本の財政は日米双方のとんでもない連中からくいものにされていくだけじゃないか』 |
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石橋は怒った。そこでGHQ側に自らがまとめた要求をつきつけたのである。 将校用のゴルフ場など可及的速やかに工事をやめなければならないものもあった。 進駐軍の面々に大蔵大臣としてこれだけのことは守って欲しいと強硬に要求をつきつけた。 ムダな工事をやめさせると同時に、全国に散在する多くの工事を改めて査定し、予算のムダづかいを防いでいった。 |
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『われわれの、その時の計算では、少なくとも平均二割の削減を行い得る』と考えていた。 こういう英断は、そのころの絶大な権力者であるGHQに対して真っ向から、敗戦国とはいえ正論をぶつけたことになり、それはまさに気骨の士の意地でもあった。 |
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石橋自身はこの終戦処理費の削減は何も不当なことを行ったわけではなく、財政の専門家としてあたりまえのことをあたりまえとして行ったに過ぎないと信じていた。」 |
◆公職追放判定基準(保阪正康著「石橋湛山の65日」より)
A項: | 戦争犯罪人 |
B項: | 職業陸海軍職員 |
C項: | 極端な国家主義団体または秘密愛国団体の有力分子 |
D項: | 大政翼賛会、翼賛政治会および大日本政治会の活動における有力分子 |
E項: | 日本の膨張に関係した金融機関および開発機関の職員 |
F項: | 占領地の行政長官等 |
G項: | その他の軍国主義者および極端な国家主義者 |
◆「私の公職追放に対する見解」(舟橋洋一著「湛山読本」より)
中央公職適否審査委員会 御中 昭和22年5月12日 石橋湛山 |
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1. | 私がG項該当者として公職から追放されるというようなことは、夢にも私が想像しなかったことである。 | |
2. | 私は東洋経済新報の編集者兼社長であった責任によって、公職から追放されなければならないのであり、その理由は「アジアにおける軍事的および経済的帝国主義を支持し、かつ日本国民に対し、全体主義的統制を課することを主張した」ことにあると言うのである。 しかし、私は東洋経済新報に対するこのような判決には絶対に服従することができない。 |
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3. | 東洋経済新報が、終始一貫してすべての形の帝国主義と全体主義とに反対し、あらゆる戦争を拒否し、枢軸国との接近の危険を主張し、労働組合の発達に努力したことは、同誌を知る日本国民が広く一般に知っていることである。 このことについては、たとえ私の政敵であっても、その者が正直である限り、断じて否定しないと考える。 |
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4. | 東洋経済新報社は、日本における自由主義の本山として一般に認められ、ために同社と私は戦時中、非常に大きな圧迫を受けた。 | |
5. | 私が多くの財政的損失を顧みず、昭和9年5月から日本文の東洋経済新報のほかに、英文のそれを発行した目的は、それによって日本の実情をありのままに外国に伝え、険悪になりつつあった国際関係の改善に微力を尽くすことであった。 | |
6. | 言うまでもなく、東洋経済新報は定期刊行物である。 したがってその発行される時期の経済、政治、社会の情勢を正しく読者に伝え、彼らに客観的批判の材料を提供する必要がある。 私はそのような目的から、私とまったく正反対の主張をする者の意見も、しばしば誌上に掲載した。しかし、その目的は、それらの主張を宣伝することではなく、逆にそれらがいかに不合理であり、虚偽であるかを読者に知らせるためであった。 |
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(略) | ||
13. | 東洋経済新報と私とは戦時中、自由主義であり、平和主義であり、反軍的であるとして圧迫を受けた。 にもかかわらず、今はそれとまったく反対の宣告を受け、私は公人としての生命を絶たれようとしているのである。 果たしてどちらが正しいのか。 貴委員会が速やかに正当なる判決を行われることを要求する。 |
日本側の中央公職適否審査委員会は、昭和22年5月2日、吉田茂内閣の蔵相だった石橋湛山については「該当せず」との判定を下しており、吉田茂首相もそれに同意していた。
しかし、GHQはホイットニー民生局長名で湛山を追放すべしと命令した。(湛山読本)
◆公職追放後の湛山
昭和22年 | 11月 | 自由思想協会設立 |
昭和26年 | 6月 | 公職追放解除 |
昭和27年 | 9月 | 反党活動を理由に自由党を除名 |
10月 | 衆院選挙に当選 | |
12月 | 自由党復党承認 | |
昭和28年 | 3月 | 鳩山派自由党に入党 |
11月 | 自由党に復帰 | |
昭和29年 | 11月 | 日本民主党最高委員に選任 |
12月 | 鳩山内閣通産大臣に就任 | |
昭和31年 | 12月 | 自由民主党大会において総裁に選出 内閣首班に指名 石橋湛山内閣成立 |
◆湛山の「総裁選」(保阪正康著「石橋湛山の65日」より)
午前11時43分から新総裁を決定する投票が始まった。 単記無記名で衆参両議院の議員、それに地方代議員の順で行われた。 その結果は次のようになった。 岸信介 223票 石橋湛山 151票 石井光次郎 137票 |
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過半数の256票を獲得する者がなく、岸と石橋の間で決選投票が行われることになった。(略) | |
午後0時30分すぎに、決選投票に入り午後1時には投票も終わり、すぐに開票に入っている。 この開票時にひとつの政治ドラマがあった。 選挙管理委員でもあった石田がのちに著書にも書き、新聞記者にも語ったために知られることになるのだが・・・ |
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管理委員は壇上で集計を行う。石田はその集計結果を見ると岸票が251、そして石橋票は250になる。 わずか1票差である。石田の表現では「思わず目の前が暗くなる」という状態だった。 ところが隣を見ると三木武夫派で石橋支持の選挙管理委員井出一太郎がふるえる手で残りの投票用紙をにぎっている。 |
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「君、その手の中は石橋票か・・・何票ある?」 「8票だよ」 石田は内心の笑みを隠して、議長席に近づいた。 「議長、この際ちょっと休憩したらどうですか」と砂田の耳元で囁いた。砂田は岸支持である。 砂田は、石田がそういうのであれば石橋が敗れたに違いないと判断して、「いや休憩はしない」と石田の申し出をはねのけた。 |
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石田は一世一代の大芝居に勝ったと実感した。 もし休憩していたら、そして岸が負けているとわかったら、投票用紙の中には無効投票があるとの声が起こったりして、結果はどうなったかわからなかったと、石田は認めている。 |
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砂田は茫然とした表情で、投票結果を発表した。(略) 石橋湛山 258票 岸信介 251票 無効投票 1票 |
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会場にはどよめき、萬歳の声、さらには複雑なうめき声も発せられた。 大方の者は、岸が鳩山の後継者になるのだろうと想定していたのだが、その実態はまったく異なった形になったのである。 |
◆湛山内閣の「五つの誓い」
1. | 国会運営の正常化 |
2. | 政界及び官界の綱紀粛正 |
3. | 雇用の増大 |
4. | 福祉国家の建設 |
5. | 世界平和の確立 |
「 | 石橋湛山内閣の政策方針をまとめると、日本の高度経済成長の道筋を示した積極財政政策、親共産圏・脱安保体制の独立自主外交、および軽武装再軍備の三点である。」 |
(姜克實著「石橋湛山」より)