建碑のいきさつが、陳野守正氏著「大陸の花嫁」の中に書かれています。
「 | 1986年10月、群馬県吾妻郡中之条町に小暮久弥氏(あづま会副会長・当時81歳)を訪ね、「おろかもの之碑」を案内していただいた。 おろかもの之碑は1961年(昭和36年)に建てられたが、そのいきさつはつぎのようである。 |
戦争中、大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会等の責任者だった者は、敗戦後、占領政策により戦争犯罪人として1947年(昭和22年)より一切の公職から追放された。 | |
それから四年後、「公職追放」を解除された吾妻郡内の該当者全員が一堂に会し「あづま会」を結成した。 | |
一同は会の設立以前から戦争に協力した行為を深く反省し二度と過ちは繰り返さないようにと、またおたがいに励まし合う意味で年一度の集まりをもっていた。 | |
そうしているうち公職追放などいずれ世の中から忘れ去られてしまうだろう。 碑を建てたらどうだろうか、そのほうが集まりやすいし、という話になった。 |
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そこであづま会設立十周年に際し「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを侵すことなきを願い」(碑文の一節)碑を建てることにした。 世話係として西毛新聞社社長富沢碧山氏がおされた。 |
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碑をつくる段階で、「全員の名前を刻んでおくだけでもなんだから、名称を考えべえじゃないか」との発言があった。 それに応えて萩原進氏(吾妻郡長野原町出身、当時群馬県議会図書室長)が「とにかく前後も知らねえで悪いことに協力したのは馬鹿もんだから・・・馬鹿もんというのはおろかもんということだから、どうだ、おろかものとしては・・・。」といった。 するとみんなが「それがよかんべ、馬鹿もんだったのだから、おろかものとしよう。」と同意し、碑の名称が決まった。 |
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このような経過を経て1961年(昭和36年)、会員だけで金を出し合い碑を建てた。 碑の表には「おろかもの之碑」、裏面には碑を建てた趣旨と会員80余名の名前を刻んだ。 |
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おろかもの之碑は、戦争に駆り出されて死んだ者は一番気の毒で申し訳ないのだからと、英霊殿(現大国魂神社)の境内に建てた。」 |
しかし現在、碑は「大国魂神社」ではなく、800mほど離れた「林昌寺」の山門左に移されています。
地元の遺族会から、「英霊に対して、おろかものとは何だ!」と強い反発・抗議があったのです。
「あづま会」の人たちは、
「 | そうじゃない、勘違いしている。 わしらがおろかもんなんだ。わしらがおろかもんのために、あんたたちの息子さんたちみんなが戦争に駆りたてられて戦争で死んだんだ。 その申し開きのために、反省のために碑を建てることにしたのだから、英霊殿に建てるのが一番いいと思って建てたのだ。」 |
そして、建立の翌年、「おろかもの之碑」は「林昌寺」に移されました。
碑背に刻まれた撰文は、後ろの塀との間が狭くて、うまく撮影することが出来ませんでした。
塀に上ることもできず、あきらめて帰ってきましたが、後日、雑誌「上州風 第8号」に碑文が載っているのを見つけました。
自らを「おろかもの」あるいは「罪人」と称してはいるのですが、文中には気になる箇所もあります。
「日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ 我々ハ当時ノ職務上 或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニ・・・責任者トナッタ」であるとか、「本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ」という部分です。
そこには、「止むを得なかったんだ」「本意ではなかったんだ」という気持ちがにじみ出ていますが、本当にそうだったのでしょうか。
私はこの碑を、「付和雷同自戒之碑」と呼びたいと思います。
【おろかもの之碑】