藤塚の「大神宮様」から国道の向こう側を見ると、堤防にしては妙に膨らんだ格好になっているのに気が付きます。
藤塚歩道橋の上から見るとちょっとした小山のようで、国道がそれを避けるように曲がっているのが分かります。
高崎側から見ると、小山に上る道が二股に分かれています。
左側は堤防上への道、右側の道はこの先でぷつんと途切れていますが、これが昔の国道18号だと言われても、俄かには信じられないでしょう。
このことについて「高崎の散歩道 第十集」には、こんな記述があります。
「 | 昭和三十年代に中山道南側にあった吉田家でこんなことが起こった。 |
家の柱が急に少しづつずれるので、八幡地区から当時選出された加部市会議員に相談したところ、中山道がコンクリートで舗装されているので、コンクリートが膨張し、柱を押すのだろうなどとみんなで考えた。 | |
しかし六月ごろ碓氷川へひび割れが生じ、川底に段ができ、なお地割れしていることがわかり、村中の大騒ぎになった。 | |
また調べてみると堤防の一部が隆起していることや亀裂が入っていることも分かってきた。 | |
市や土木関係の人々も加わって調査した結果、少林山の周りにも何ヵ所か土地の亀裂、陥没を発見した。 | |
そこで四国の地滑りについての権威者に調べてもらったところ、日本アルプスの雪解け水が浸透してその圧力により弱い地盤の所を吹き上げ、地滑りを起こすのではないか、したがって水を抜けば地滑りは止まるということで、早速、市や県によって少林山東のカニ沢の崖に隧道を掘り水を抜くことにしたが、掘り進んでいくうち機械の故障で中止となった。 | |
この間、拠点を定め細かに測量してみると、大崖が南へ動いている、いや北へ動いているということで問題が発展し、全国的な問題になってしまった。 | |
そこで京大の教授はじめ全国の地質・土木の学者や当局の担当者が集まり再調査したところ、少林山の丘陵全体が三十メートル下で頁岩層となっていて、碓氷川の底へ傾斜している。 この層の上を地下水が流れその影響で地滑りが起こるという結論に達した。 |
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対策としては、少林山下にコンクリートの杭を大量に打ち込んだため最近は地滑りもなくなった。 | |
この間、吉田家では家の前の中山道が二階の高さまで上がってしまい、道を通る人が『お宅はえろう落ち込んでしまったのう』とは、中山道の隆起したことを知らない人の言葉であったと、吉田良太郎翁は、藤塚と共に生きてきた過去の災害記録を淡々と語ってくれた。」 |
昭和34年(1959)4月頃、民家の立てつけ等に多少の狂いが出たのが、事の始まりでした。
その時は、建物のせいだろうとあまり気にしなかったそうですが、7月になって急に変形が激しくなり、土間のコンクリート等が破壊し始めました。
翌35年(1960)6月になると、国道に300mにわたる亀裂が発生し、隆起が始まります。
隆起は、7月には8cm、10月には1m、翌年6月になると3~5mにも達し、家屋15戸倒壊、橋梁一基倒壊という大きな被害も出しました。
(昭和58年10月群馬県土木部砂防課発行「少林山地すべり」より)
その時の写真が、国土交通省砂防事例集の中に残されています。
堤防上には、赤く錆びついた「少林山地すべり防止区域」の看板が今も建っていて、地すべりにつながるような土木工事を禁じています。
少林山の地滑り対策工事は、発生直後の昭和三十五年(1960)から平成十一年(1999)までの長きにわたって続けられました。
その間、様々な対策工事が行われましたが、最終的には達磨寺本堂裏の滑り易い土を取り除くという、大掛かりな工事となりました。
その時伐採されたケヤキの木は、平成九年(1997)に建てられた総門に使われています。
そして、土を取り除いた一帯は、広大で見晴らしの良い公園に生まれ変わり、そんな地すべりがあったことなど感じさせません。
ただそこに建てられた大きな看板だけが、40年にわたる自然との格闘の歴史を語り継いでいます。
【隆起した国道跡】