前回、ここまで来たところで高崎駅東口から来る大きな道路に遮られてしまいました。
今日はその道路を迂回横断して、先へ進みます。
170mほど行くと、「極楽寺」の前に出ます。
極楽寺には、「なきんぞう」や「徳川忠長正室の供養墓」があります。
その先には、また大きな道路、高崎環状線が横切っていますが、突っ切っていきます。
280mほど行くと、道端に享和二年(1802)の道祖神が、ポツンと建っています。
やはり、街道だったという証なのでしょうか。
ほどなく上中居町の交差点で、中居団地から来る道と交差します。
昔はなかった道が、「初めの中山道」をブツブツと切り刻みます。
さて、この先、「高崎市史 下巻」では、「鍛治屋敷ヲ經テ下ノ城、東方倉賀野永泉寺前ニ出ヅ」とありますが、この記述の解釈が微妙です。
「下之城へ入って東へ行く」ともとれますし、「下之城の東の方へ行く」ともとれます。
明治十八年(1885)の地図で見てみましょう。
「極楽寺」から斜めにずっと来て、下中居村と下之城村のところで道が分岐していますが、下之城村へ入った道は鉄道を越えて正六の方(南)へ出てしまいます。
その途中から東へ行く道もあるにはありますが、ただ遠回りするだけのものです。
なので「初めの中山道」は、下之城村へは入らず下中居村のへりを通って永泉寺に向かう道筋だと解釈しました。
ところが、これを現在の地図で見ると、むかし一面の耕地だった所が開発され、道路も網の目のようになっていて、昔の道筋を想定するのは実に難しい状態です。
それでも、地図とにらめっこをしていると、昔の道と同じ形をした道が見つかります。
では、そのルートを歩いてみましょう。
上中居町の信号から、道なりにまっすぐ歩いて450mほど、またもや大きな道と交差します。
上中居から下之城を経て国道17号に抜ける最近できた道です。
信号を渡って下之城方面に進むと、道端に天保六年(1835)の「衜陸神」(道陸神/どうろくじん)が建っていました。
そこから100mほど行って左折します。
この道を境に、左が下中居町、右が下之城町です。
「初めの中山道」は、その境を東へ向かったということになります。
「実政街道」もそうでしたが、昔の街道は宿場町は別として、村の中に旅人を通すことを嫌って、村のへりに沿って通らせるように造られていたようです。
因みに、上の写真の「佐藤紙器製作所」は、高崎五万石騒動の大惣代・佐藤三喜蔵の屋敷跡だそうです。(高崎漫歩)
そのちょっと先の角に、また道祖神が建っています。
これは、安政四年(1857)のものです。
少し歩くと、こんな所に倉賀野「丁字堂」の看板がありました。
やはり、倉賀野への街道だったからなんでしょうか。
現在は「丁子堂」という表記ですが、この頃は「丁字堂」だったんですね。
高崎観光協会の「ラッキータウン高崎」によると、
だそうです。
さらに350mほど進み、振り向いて気が付いたのですが、ここにも道祖神が隠れてました。
これは、享和三年(1803)です。
その相向いが、高崎五万石騒動大惣代の佐藤三喜蔵が眠る「普門寺」です。
今日は、三喜蔵さんのお墓にお参りしたところで、ひと区切りとしましょうか。
次回は、倉賀野まで辿り着けるかな。
今日はその道路を迂回横断して、先へ進みます。
170mほど行くと、「極楽寺」の前に出ます。
極楽寺には、「なきんぞう」や「徳川忠長正室の供養墓」があります。
その先には、また大きな道路、高崎環状線が横切っていますが、突っ切っていきます。
280mほど行くと、道端に享和二年(1802)の道祖神が、ポツンと建っています。
やはり、街道だったという証なのでしょうか。
ほどなく上中居町の交差点で、中居団地から来る道と交差します。
昔はなかった道が、「初めの中山道」をブツブツと切り刻みます。
さて、この先、「高崎市史 下巻」では、「鍛治屋敷ヲ經テ下ノ城、東方倉賀野永泉寺前ニ出ヅ」とありますが、この記述の解釈が微妙です。
「下之城へ入って東へ行く」ともとれますし、「下之城の東の方へ行く」ともとれます。
明治十八年(1885)の地図で見てみましょう。
「極楽寺」から斜めにずっと来て、下中居村と下之城村のところで道が分岐していますが、下之城村へ入った道は鉄道を越えて正六の方(南)へ出てしまいます。
その途中から東へ行く道もあるにはありますが、ただ遠回りするだけのものです。
なので「初めの中山道」は、下之城村へは入らず下中居村のへりを通って永泉寺に向かう道筋だと解釈しました。
ところが、これを現在の地図で見ると、むかし一面の耕地だった所が開発され、道路も網の目のようになっていて、昔の道筋を想定するのは実に難しい状態です。
それでも、地図とにらめっこをしていると、昔の道と同じ形をした道が見つかります。
では、そのルートを歩いてみましょう。
上中居町の信号から、道なりにまっすぐ歩いて450mほど、またもや大きな道と交差します。
上中居から下之城を経て国道17号に抜ける最近できた道です。
信号を渡って下之城方面に進むと、道端に天保六年(1835)の「衜陸神」(道陸神/どうろくじん)が建っていました。
そこから100mほど行って左折します。
この道を境に、左が下中居町、右が下之城町です。
「初めの中山道」は、その境を東へ向かったということになります。
「実政街道」もそうでしたが、昔の街道は宿場町は別として、村の中に旅人を通すことを嫌って、村のへりに沿って通らせるように造られていたようです。
因みに、上の写真の「佐藤紙器製作所」は、高崎五万石騒動の大惣代・佐藤三喜蔵の屋敷跡だそうです。(高崎漫歩)
そのちょっと先の角に、また道祖神が建っています。
これは、安政四年(1857)のものです。
少し歩くと、こんな所に倉賀野「丁字堂」の看板がありました。
やはり、倉賀野への街道だったからなんでしょうか。
現在は「丁子堂」という表記ですが、この頃は「丁字堂」だったんですね。
高崎観光協会の「ラッキータウン高崎」によると、
「 | 1903年創業で118年目。 初代が上野の丁子堂から暖簾分けで創業して現在で4代目。 初代と四代目は「丁子堂」の表記ですが、2~3代目は「丁字堂」の表記だったとか。 誤って「字」で看板を作ってしまいそのままとしていたが、4代目になるときにウ冠を取って「子」に戻しました。 本来の字に戻すだけでなく、上に伸びていけるようにとの意味を込めてとのこと。」 |
さらに350mほど進み、振り向いて気が付いたのですが、ここにも道祖神が隠れてました。
これは、享和三年(1803)です。
その相向いが、高崎五万石騒動大惣代の佐藤三喜蔵が眠る「普門寺」です。
今日は、三喜蔵さんのお墓にお参りしたところで、ひと区切りとしましょうか。
次回は、倉賀野まで辿り着けるかな。
【今日の散歩道】