九蔵町の「一里塚跡」の看板に「佐野粕沢の一里塚」とある、ここの一里塚跡にも史跡看板が建ちました。
でも看板が建っている場所は、「佐野粕沢」ではありません。
この辺にあったされる一里塚は、「倉賀野の一里塚」とか、「正六の一里塚」とか、「粕沢の一里塚」とかいろんな呼び方をされます。
ここも九蔵町同様、一里塚の痕跡はまったく残っておらず、場所が特定しにくいのでしょう。
そのせいか、この史跡看板でも「中山道の一里塚」という、だいぶ腰の引けた表現になっています。
九蔵町のと違うところは、一里塚を描いた絵図があることです。
看板に載せている絵図は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」の一部で、南が上になっています。
北を上にして、倉賀野宿西端まで範囲を広げて見てみましょう。
こうすると、安楽寺から一里塚まではだいぶ距離があるように描かれていて、下正六の集落よりもさらに高崎寄りに描かれています。
これはたしかに、「粕沢の一里塚」と呼びたくなります。
しかし、「中山道分間延絵図」というのを見ると、一里塚は下正六の集落よりも倉賀野宿寄りに描かれていて、これなら「正六の一里塚」とか「倉賀野の一里塚」と呼びたくなります。
さあ、どちらの絵図がより正しい位置を示しているのでしょう。
そこで、明治十四年(1881)に土屋補三郎(老平)が書いた「倉賀野誌」の記述を見てみましょう。
「粕沢」でも「正六」でもなく、「南側は字薬師前、北側は字稲荷前」にあったと書かれています。
どうやら「中山道分間延絵図」の方が正しそうなので、明治十三年(1880)~十九年(1886)頃の地図と付き合わせて、場所の見当を付けてみましょう。
目安にしたのは、「林西寺と下正六の間で、野道と水路の似てるとこ」です。
さらに、それを現在の地図に置き換えてみると、おそらくこの辺かと思われます。
ちょうど、今史跡看板が建っている辺りになりそうです。
史跡看板は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」を掲載しつつも、建てた場所は「中山道分間延絵図」の方を採用したようです。
ということで、この一里塚は「倉賀野の一里塚」と呼ぶことにしてはいかがでしょうか。
いずれにしても、高崎にあった三つの一里塚全ての場所に看板が建ったということは、喜ばしいことであります。
でも看板が建っている場所は、「佐野粕沢」ではありません。
この辺にあったされる一里塚は、「倉賀野の一里塚」とか、「正六の一里塚」とか、「粕沢の一里塚」とかいろんな呼び方をされます。
ここも九蔵町同様、一里塚の痕跡はまったく残っておらず、場所が特定しにくいのでしょう。
そのせいか、この史跡看板でも「中山道の一里塚」という、だいぶ腰の引けた表現になっています。
九蔵町のと違うところは、一里塚を描いた絵図があることです。
看板に載せている絵図は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」の一部で、南が上になっています。
北を上にして、倉賀野宿西端まで範囲を広げて見てみましょう。
こうすると、安楽寺から一里塚まではだいぶ距離があるように描かれていて、下正六の集落よりもさらに高崎寄りに描かれています。
これはたしかに、「粕沢の一里塚」と呼びたくなります。
しかし、「中山道分間延絵図」というのを見ると、一里塚は下正六の集落よりも倉賀野宿寄りに描かれていて、これなら「正六の一里塚」とか「倉賀野の一里塚」と呼びたくなります。
さあ、どちらの絵図がより正しい位置を示しているのでしょう。
そこで、明治十四年(1881)に土屋補三郎(老平)が書いた「倉賀野誌」の記述を見てみましょう。
「 | 一里塚 |
本駅(倉賀野)南方、字薬師前、荒畑壱畝廿九歩、北方、字稲荷前、荒畑廿三歩、松並木ノ左右ニ立リ、 | |
高一丈五尺(4.55m)、塚上ニモミノ木植リ、明治三、四年頃ヨリ、追々毀チ、平地田成。」 |
「粕沢」でも「正六」でもなく、「南側は字薬師前、北側は字稲荷前」にあったと書かれています。
どうやら「中山道分間延絵図」の方が正しそうなので、明治十三年(1880)~十九年(1886)頃の地図と付き合わせて、場所の見当を付けてみましょう。
目安にしたのは、「林西寺と下正六の間で、野道と水路の似てるとこ」です。
さらに、それを現在の地図に置き換えてみると、おそらくこの辺かと思われます。
ちょうど、今史跡看板が建っている辺りになりそうです。
史跡看板は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」を掲載しつつも、建てた場所は「中山道分間延絵図」の方を採用したようです。
ということで、この一里塚は「倉賀野の一里塚」と呼ぶことにしてはいかがでしょうか。
いずれにしても、高崎にあった三つの一里塚全ての場所に看板が建ったということは、喜ばしいことであります。