「伝者繁栄碑」で道草を食ってから、だるまの大門屋の前を通り過ぎると、地下からにょっきり生えているような石鳥居が見えてきます。
近くまで行くと、道路より低いところにこじんまりしたお宮があります。
藤塚の「大神宮様」と呼ばれているそうです。
お宮の右に、「洪水記念之碑」というのが建っています。
漢字を拾い読みしてみると、明治四十三年(1910)のこの地域の洪水について、こんな風に記されているようです。
裏面には、「大正七年 大字藤塚建之」と刻まれています。
さらに、お宮を挟んだ左には、「射水神」(いみずしん)と刻まれた大きな石碑があり、裏面にはこう刻まれています。
大正九年(1920)に、碓氷川対岸の山林約2万㎡が滑り落ち、土砂が碓氷川の流れを堰き止めて氾濫した、とあります。
皮肉にも、「洪水記念之碑」を建立したわずか2年後のことです。
とにかく昔から、この藤塚地区は碓氷川の氾濫に悩まされてきたようです。
対岸の少林山達磨寺の縁起さえ、碓氷川の氾濫が元となっています。
さらに下って昭和十年(1935)、またもや碓氷川は氾濫し、藤塚地区を襲います。
ちょうどこの時、少林山の洗心亭に仮寓していたブルーノ・タウトが、乏しい生活費の中から贈った義捐金は、「お見舞 ブルーノ・タウト」と書いた大バケツとなって各戸に配られ、残金は貧困家庭に分けられたそうです。
タウトは、群馬県に対して高い堤防の建設も陳情しています。
その堤防は、昭和十一年(1936)タウトが洗心亭を去って間もなく着工され、現在も藤塚地区を護っています。
近くまで行くと、道路より低いところにこじんまりしたお宮があります。
藤塚の「大神宮様」と呼ばれているそうです。
お宮の右に、「洪水記念之碑」というのが建っています。
漢字を拾い読みしてみると、明治四十三年(1910)のこの地域の洪水について、こんな風に記されているようです。
「 | 明治四十三年八月十日の暴風雨で碓氷川に大水が出て橋が流され、藤塚村は低地で人家も岸に近いので、鐘を打って近村に助けを求めたが、風雨はますます激しくなって、ついに堤防は決壊して村中が濁流に浸かった。 |
人は皆あわてて、梁につかまり屋根に上がり、泣き叫ぶ声は夜通し続いた。 | |
翌十一日の明け方になって、ようやく水の勢いは弱まったが、流失家屋18戸、損壊2戸、半壊50戸、溺死者2名、生死不明者1名であった。(略) | |
九月六日、侍従日野根要吉郎は県知事神山潤を派遣して、天皇陛下のお言葉を下賜された。 また、皇族諸侯からも見舞金を賜り、村民は感泣した。(略) |
|
翌年、堤防を再築し全復旧を得た。(略)」 |
裏面には、「大正七年 大字藤塚建之」と刻まれています。
さらに、お宮を挟んだ左には、「射水神」(いみずしん)と刻まれた大きな石碑があり、裏面にはこう刻まれています。
「 | 大正九年六月向山字赤岩下山林面積約二町歩ニ大地滑ヲ生ジ、地先碓氷川流域ヲ閉塞シ水勢部落ニ氾濫シ村民ハ狼狽憂懼直ニ善後策ヲ講シ、其筋ノ踏査ヲ申請シ時ノ長官大芝知事ノ決済ヲ経テ延長五百弐拾餘間ノ河岸修築工事ヲ住民請負ニテ堅牢ヲ主トシテ完了セリ、為ニ村民ハ漸ク其堵ニ安ンズ、茲ニ築堤ヲ永遠ニ守護シタマヘル射水神ヲ奉戴シテ建立スルナリ |
大正十一年二月 寄附者 瀧澤喜市」 |
大正九年(1920)に、碓氷川対岸の山林約2万㎡が滑り落ち、土砂が碓氷川の流れを堰き止めて氾濫した、とあります。
皮肉にも、「洪水記念之碑」を建立したわずか2年後のことです。
とにかく昔から、この藤塚地区は碓氷川の氾濫に悩まされてきたようです。
対岸の少林山達磨寺の縁起さえ、碓氷川の氾濫が元となっています。
「 | 延宝【えんぽう】年間(1673―1680)のはじめころ、大洪水があって碓氷川が氾濫したときのことです。 |
水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけました。 不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみると、どこから流れついたのか奇異な形の黒光りする大きな古木でした。 そして引き上げてみると、お香のような良い香りまでするのです。 みな不思議に思い、霊木として観音堂に奉納しておきました。 |
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それから数年過ぎた延宝8年(1680)の春、この鼻高村に諸国を廻る一了【いちりょう】という老行者がわざわざたずねてやってきました。 | |
不審に思った村人がここに来た訳を尋ねると、一了老人は不思議な夢の話をしました。
それによると、ある時達磨大師が夢枕に立たれて言われるのに、「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい。」と申されたので尋ねてきたのだそうです。 村人はすぐにあの霊木だと気がつき観音堂に案内しました。 一了老人は涙を流して感激し、さっそく沐浴【もくよく】して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地【ごたいとうち】の拝礼を三度する、一刀三礼【いっとうさんれい】という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。 |
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さて、その達磨像を観音様と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりません。 困っていると、ある日碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れつきました。 | |
村人達はまた観音堂に運ぶと、一了老人は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。 | |
村人達は一了老人が心を込めて素晴らしい達磨像を彫り上げたので、「有難い達磨大師が鼻高に現れたぞ!」と噂をするようになりました。 この達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたり「活然【かつねん】大師(達磨大師のこと)出現の霊地」として、誰言うとなく村の人たちが「少林山」と呼ぶようになったそうです。」 |
(少林山達磨寺公式HPより)
さらに下って昭和十年(1935)、またもや碓氷川は氾濫し、藤塚地区を襲います。
ちょうどこの時、少林山の洗心亭に仮寓していたブルーノ・タウトが、乏しい生活費の中から贈った義捐金は、「お見舞 ブルーノ・タウト」と書いた大バケツとなって各戸に配られ、残金は貧困家庭に分けられたそうです。
タウトは、群馬県に対して高い堤防の建設も陳情しています。
その堤防は、昭和十一年(1936)タウトが洗心亭を去って間もなく着工され、現在も藤塚地区を護っています。
【藤塚の洪水碑】