金治郎が母没後に引き取られたという、伯父・万兵衛のお宅が現存していました。
もっと遠くに引き取られていったものと、勝手に思っていたのですが、金治郎生家のすぐ隣でした。
「報徳記」による万兵衛は、「甚(はなはだ)吝(やぶさか)にして慈愛の心薄し」と散々の言われようですが、さすがにこの看板では、「金次郎を早く一人前にしようという親心で・・・」となっています。
もうひとつ、この看板で気になったのは、「金治郎は18歳の時に人の手に渡っていた家を買い戻し」となっていることです。
生家跡にあった看板では「隣町に売られた家が戻ってきたのは、昭和三十五年」となっていました。
「報徳記」では、金治郎が万兵衛宅を辞して帰った時は、
「僅かに虚屋(あきや)を存すと雖も、数年無住の故を以て大破に及び蔓草軒を蔽へり」
となっています。
さて、その真実や如何に?
万兵衛宅のすぐ近くに、村人の捨てた苗を金治郎が用水堀に植えて米一俵を得たという場所が、公園として残されています。
すごいなー!と思ったのは、そこを報徳小学校(校名もいい!)の学習田として、子どもたちに米作りの体験をさせていることです。
ここは、「日本の米づくり100選」指定水田にもなっています。
次は、金治郎のお墓があるという「善栄寺」へ行ってみました。
お墓といっても、金治郎の遺体は日光今市に葬られており、「善栄寺」は二宮一族の菩提寺ということから、遺歯・遺髪を持ち帰って埋葬してあるということです。
境内には、座って宙を見つめ、何やら書いている金治郎の像があります。
この「善栄寺」では寺子屋を開いていたようですが、万兵衛の家に寄食していた金治郎が、寺子屋に通えたとは思えません。
また、箱に入れた砂に文字を書いて練習していたといいますから、紙の草子に筆で字を書いているこの姿は、作者の創作イメージなのでしょう。
台座には、「積小為大」(せきしょういだい:小を積みて大と為す)と刻まれていました。
「積小為大」について、「二宮翁夜話」にはこう書かれています。
手にしている草子には、「音もなく香もなくつねに天地(あめつち)は」と刻まれています。
これは、「二宮翁夜話」のしょっぱなに出てくる、金治郎の詠んだ道歌の一節です。
手前の小さな墓石が、金治郎の遺髪と遺歯を納めたお墓です。
百五十回忌の菩提塔には、「一日に一字づつ習えば 一年に百六十五字になるぞ この小僧」と墨書されています。
まさしく「積小為大」を表していますが、気になるのは最後の「この小僧」です。
金治郎が野良仕事に出ようと善栄寺の門前まで来ると、一人の少年が真新しい手習いの草子を持って、寺に入るところでした。
呼び止めた金治郎が、少年の筆と草子を借りて書いたのが、「一日に・・・」という言葉だったそうです。
その言葉で少年を励ましたというのですが、だとしたら「この小僧」は余分でしょう。
おそらく、砂に字を書いて憶えた金治郎の、恵まれた少年への負けん気の表れだったと思うのですが、いかがでしょうか。
遺跡めぐりはまだ続きますが、長くなりましたのでまた次回。
もっと遠くに引き取られていったものと、勝手に思っていたのですが、金治郎生家のすぐ隣でした。
「報徳記」による万兵衛は、「甚(はなはだ)吝(やぶさか)にして慈愛の心薄し」と散々の言われようですが、さすがにこの看板では、「金次郎を早く一人前にしようという親心で・・・」となっています。
もうひとつ、この看板で気になったのは、「金治郎は18歳の時に人の手に渡っていた家を買い戻し」となっていることです。
生家跡にあった看板では「隣町に売られた家が戻ってきたのは、昭和三十五年」となっていました。
「報徳記」では、金治郎が万兵衛宅を辞して帰った時は、
「僅かに虚屋(あきや)を存すと雖も、数年無住の故を以て大破に及び蔓草軒を蔽へり」
となっています。
さて、その真実や如何に?
万兵衛宅のすぐ近くに、村人の捨てた苗を金治郎が用水堀に植えて米一俵を得たという場所が、公園として残されています。
すごいなー!と思ったのは、そこを報徳小学校(校名もいい!)の学習田として、子どもたちに米作りの体験をさせていることです。
ここは、「日本の米づくり100選」指定水田にもなっています。
次は、金治郎のお墓があるという「善栄寺」へ行ってみました。
お墓といっても、金治郎の遺体は日光今市に葬られており、「善栄寺」は二宮一族の菩提寺ということから、遺歯・遺髪を持ち帰って埋葬してあるということです。
境内には、座って宙を見つめ、何やら書いている金治郎の像があります。
この「善栄寺」では寺子屋を開いていたようですが、万兵衛の家に寄食していた金治郎が、寺子屋に通えたとは思えません。
また、箱に入れた砂に文字を書いて練習していたといいますから、紙の草子に筆で字を書いているこの姿は、作者の創作イメージなのでしょう。
台座には、「積小為大」(せきしょういだい:小を積みて大と為す)と刻まれていました。
「積小為大」について、「二宮翁夜話」にはこう書かれています。
「 | 大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし、小積りて大となればなり、凡(およそ)小人の常、大なる事を欲して小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて出来易き事を勤めず、夫故(それゆえ)終(つい)に大なる事をなす事あたはず、 夫(それ) 大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり |
譬(たとえ)ば 、百万石の米と雖(いえど)も粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも其(その)業(わざ)は一鍬づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(もっこ)の土よりなる事を明かに弁(わきま)へて、励精小さなる事を勤めば、 大なる事必なるべし、 小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必出来ぬものなり」 |
手にしている草子には、「音もなく香もなくつねに天地(あめつち)は」と刻まれています。
これは、「二宮翁夜話」のしょっぱなに出てくる、金治郎の詠んだ道歌の一節です。
「 | 我が教へは書籍(しょじゃく)を尊まず。故に天地(あめつち)を以って経文とす。予が歌に 音もなく 香もなく常に天地は 書かざる経を くりかへしつゝ とよめり。 |
此のごとく日々繰返し繰返して示さるゝ天地の経文に、誠の道は明らかなり。(略) | |
則ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き、万古不易(ばんこふえき:いつまでも変わらないこと)の道理により、誠の道に基きて、之を誠にするの勤をなすべきなり。」 |
手前の小さな墓石が、金治郎の遺髪と遺歯を納めたお墓です。
百五十回忌の菩提塔には、「一日に一字づつ習えば 一年に百六十五字になるぞ この小僧」と墨書されています。
まさしく「積小為大」を表していますが、気になるのは最後の「この小僧」です。
金治郎が野良仕事に出ようと善栄寺の門前まで来ると、一人の少年が真新しい手習いの草子を持って、寺に入るところでした。
呼び止めた金治郎が、少年の筆と草子を借りて書いたのが、「一日に・・・」という言葉だったそうです。
その言葉で少年を励ましたというのですが、だとしたら「この小僧」は余分でしょう。
おそらく、砂に字を書いて憶えた金治郎の、恵まれた少年への負けん気の表れだったと思うのですが、いかがでしょうか。
遺跡めぐりはまだ続きますが、長くなりましたのでまた次回。