善栄寺から東へ400mほど行くと、酒匂川の土手に出ます。
金治郎の家の田畑をことごとく石河原にした暴れ川とは、とても思えないほどゆったりと流れています。
土手には、見事な松の並木。
この松並木の苗は、金治郎が植えたという話が伝わっています。
ここに建つ「二宮翁之遺跡」碑には、「先生若年ノ頃松苗二百本ヲ植ヱラレシ所ナリト傳フ・・・」と刻まれています。
ただ、この話は「報徳記」にも「二宮翁夜話」にも出てきません。
明治四十一年(1908)出版の留岡幸助著「二宮翁逸話」に出てくる話だということが後で分かりました。
留岡幸助はこの本を執筆するにあたって、栢山まで行き、金治郎の実弟・三郎左衛門の玄孫にあたる二宮兵三郎他から、話を聞いています。
「二宮翁逸話」が書かれた時には、金治郎の植えた松の並木があったようですが、神奈川県のHPによると、残念ながら、今はもうないということです。
しかし、それを偲ぶ松並木が大切に守られているということは、素晴らしいことだと思いました。
酒匂川の空をカギになって飛ぶ渡り鳥を見ながら向かった先は、金治郎が夜学に使う油を得るため、油菜の種を蒔いたという仙了川の堤です。
「報徳記」によると、伯父・万兵衛に「夜学の為に灯油を費す事、恩を知らざるもの也。」と叱られ、泣きながら謝ったという金治郎ですが、
と考え、この川べりの地を起こして油菜の種を蒔き、菜種七、八升を得ることができました。
これを町の油屋へ持って行って油と交換し、夜学を続けるわけです。
それでもなお万兵衛は、「汝自力の油を求め夜学すれば我が雑費には関せずといへども、汝学びて何の用をかなすや。無益の事を為さんより深夜に至るまで縄をなひ我が家事を補ふ可し。」と、金治郎を叱ります。
そこで金治郎は、
と、「努力」などという一語ではとても言い尽くせない行動をとります。
これが後に、何事も他人のせい社会のせいと怨まず諦めず、与えられた環境の中で自分のできることを至誠を以って行うという、金治郎の行動の原点になったように思います。
仙了川に架かる、その名も「油菜橋」から、日本の象徴・富士山の気高い姿が望めます。
少年・金治郎は、時に農民を苦しめる酒匂川の流れと、気高い富士山の姿を日々見ながら、天と地と人との関わりを深く心に刻んでいったに違いありません。
願わくは金治郎の提唱し実行した「報徳」の思想が、気高き富士のように、日本という国の象徴とならんことを。
尊徳史跡巡りは、まだ続きます。
金治郎の家の田畑をことごとく石河原にした暴れ川とは、とても思えないほどゆったりと流れています。
土手には、見事な松の並木。
この松並木の苗は、金治郎が植えたという話が伝わっています。
ここに建つ「二宮翁之遺跡」碑には、「先生若年ノ頃松苗二百本ヲ植ヱラレシ所ナリト傳フ・・・」と刻まれています。
ただ、この話は「報徳記」にも「二宮翁夜話」にも出てきません。
明治四十一年(1908)出版の留岡幸助著「二宮翁逸話」に出てくる話だということが後で分かりました。
留岡幸助はこの本を執筆するにあたって、栢山まで行き、金治郎の実弟・三郎左衛門の玄孫にあたる二宮兵三郎他から、話を聞いています。
「二宮翁逸話」が書かれた時には、金治郎の植えた松の並木があったようですが、神奈川県のHPによると、残念ながら、今はもうないということです。
しかし、それを偲ぶ松並木が大切に守られているということは、素晴らしいことだと思いました。
酒匂川の空をカギになって飛ぶ渡り鳥を見ながら向かった先は、金治郎が夜学に使う油を得るため、油菜の種を蒔いたという仙了川の堤です。
「報徳記」によると、伯父・万兵衛に「夜学の為に灯油を費す事、恩を知らざるもの也。」と叱られ、泣きながら謝ったという金治郎ですが、
「 | 我不幸にして父母を喪(うしな)ひ、幼にして独立することあたはず、他人の家に養はれ日を送るといへども、筆道文学を心懸ずんば一生文盲の人となり、父母伝来の家を興すこと難(かた)かるべし、我自力を以て学ぶ時は其の怒りに触ること無かる可し」 |
これを町の油屋へ持って行って油と交換し、夜学を続けるわけです。
それでもなお万兵衛は、「汝自力の油を求め夜学すれば我が雑費には関せずといへども、汝学びて何の用をかなすや。無益の事を為さんより深夜に至るまで縄をなひ我が家事を補ふ可し。」と、金治郎を叱ります。
そこで金治郎は、
「 | 夜に入れば必ず縄をなひ、筵(むしろ)を織り、夜更(よふけ)人寝るに及びて毎夜竊(ひそか)に灯火を点じ、衣を以って之を覆ひ他に灯光の漏れざるやうになし、筆学読書鶏鳴に及びて止む。」 |
これが後に、何事も他人のせい社会のせいと怨まず諦めず、与えられた環境の中で自分のできることを至誠を以って行うという、金治郎の行動の原点になったように思います。
仙了川に架かる、その名も「油菜橋」から、日本の象徴・富士山の気高い姿が望めます。
少年・金治郎は、時に農民を苦しめる酒匂川の流れと、気高い富士山の姿を日々見ながら、天と地と人との関わりを深く心に刻んでいったに違いありません。
願わくは金治郎の提唱し実行した「報徳」の思想が、気高き富士のように、日本という国の象徴とならんことを。
尊徳史跡巡りは、まだ続きます。