
矢島八郎は高崎市民には周知の大人物で、迷道院が改めて下手な紹介をするよりも、高崎新聞のサイトでご覧ください。
このシリーズでも、第2話では「高崎停車場開設」、第12話では「羽衣坂」という話で登場しています。
という訳で、ここではこの銅像の建設についてのお話をご紹介したいと思います。
実は、現在建っている銅像は二代目でして、昭和二十九年(1954)に再建されたものです。
二代目銅像の作者は高崎出身の彫刻家・分部順治(わけべ・じゅんじ)です。
高崎駅西口にある「希望」(写真左)や、高崎市美術館前にある「碩(せき)」(写真右)を始め、県内各地でその作品が見られます。
さて、では初代の矢島八郎像は誰の作品で、いつ建設されたのでしょう。
昭和五年(1930)五月四日付け東京朝日新聞の記事に、
「明五日端午の吉日に・・・本縣出身彫刻家森村酉三氏の手になる」と書かれています。
銅像原型の脇に立つ、作者・森村酉三です。↓

そうです、白衣大観音原型の作者としてご存知の方が多いと思います。↓
白衣大観音原型と、初代矢島八郎像の作者は同じ森村酉三だったのです。
分部順治は、酉三の矢島像を忠実に復元していたということが分かります。
矢島八郎は大正十年(1921)72歳でこの世を去っています。
銅像建設の話が持ち上がったのは、七回忌を前にした大正十五年(1926)頃だったようです。
正式に「矢島八郎翁銅像建設会」が発足したのは昭和三年(1928)、委員長となったのは井上保三郎でした。
井上保三郎が東京池袋の森村酉三のアトリエを訪ね、銅像建設の依頼をしたのが昭和四年(1929)ということです。
おそらく、この時の保三郎と酉三の出会いが、後の白衣大観音の原型制作依頼につながったのでありましょう。
さて次に、矢島八郎の銅像をなぜ清水寺の裏山という、あのような目立たない場所に建設したのかということです。
今でこそ観音山の中心は白衣大観音周辺ですが、それは昭和十一年(1936)白衣大観音完成以降のことであって、それまでは清水寺周辺こそ観音山の中心であり、その裏山こそ「観音山山頂」であった訳です。
であれば、ここに銅像を建てて高崎の町を見守ってもらおうと思うのは、ごく自然なことです。
もっとも建設地候補としては、「高崎公園」にという案も挙げられていたといいます。
その中、「観音山山頂」に決定するについては、実はもう一つの理由がありました。
その話は、少し長くなりそうなので、次回に続けることにいたします。