
その理由が、除幕式当日の昭和五年(1931)五月五日に発行された、「矢島八郎翁銅像建設記念」という小冊子に書いてあります。
「 | 翁の銅像は最初高崎市の公園内へ建設せんとの議も起こったが、市公園よりは翁と因縁の深い觀音山頂に建設する方が翁 |
「 | の遺志に叶ふものであると云ふ所から、觀音山に決定されたのである。 |
其事に就ては深い因縁がある。 | |
夫れは明治二十五年中、翁が年四十二の時、初めて代議士に當選した、その時に翁は政府擁護の政黨國民協會に投じ、其關係で首腦品川彌次郎子爵を初めて此の觀音山上に招じ大獅子吼(ししく)を爲したことがある。 | |
即ち翁が政治的に呱々の聲をあげた處が此の觀音山頂であった。」 |
「獅子吼」とは、「釈尊が説法する様子を獅子の吼える様子にたとえたもの」だそうですが、転じて「雄弁をふるう」とか「演説をする」ことをいうようです。
矢島八郎が内務大臣・品川弥次郎を招いて行った大演説会は、当時536段あった石段を上らねばならなかったにも拘らず、本県政治界空前の人出であったとか。
当時高崎にあった50台余の人力車ではとても間に合わず、前橋から40台を呼び寄せたという逸話を残しています。
それと、もうひとつの理由をうかがわせる新聞記事もあります。
除幕式を翌月に控えた昭和五年(1930)四月十五日、取材に答えた井上保三郎の言葉がそれを示唆しています。
これを見ると、当時も観音山は縁日の時以外は、あまり人が来ていなかったようです。
保三郎は、矢島八郎の銅像建設を機に、四季折々の花木を植え、交通の便をよくすることで、四季を通じて観音山に人を呼び寄せようと考えていた訳です。
これは今現在の観音山にも、そっくりそのまま当てはまる策のように思います。
ところで、観音山が寂れた原因として、保三郎が記事の中で面白いことを言ってますね。
「 | 明治維新以前は随分盛って・・・賑わいを見たのでありましたが、其後淸水寺の住職に不心得の者が來て、山上の大木等を皆伐採して賣却して仕舞ひ、山の風致を害したり等して・・・」 |
ありゃ、ありゃ。
閑話休題。
かくして矢島八郎の銅像はこの地に建つこととなり、当時の清水寺住職・高橋隆栄師は、寺地210坪を銅像建設用地として永久無償貸与することとしました。
そして、この銅像へのアクセス道路として、高橋住職はじめ土地の篤志家などの寄付による「羽衣坂」が、除幕式のわずか十日前ですが竣工をみたのです。
次回、話しはまだ続きます。