今日は、観音山をちょっとお休みして、富岡のお話です。
少し前になりますが、上毛新聞の「三山春秋」にこんなコラムが載りました。
このコラムを読んで瞬時に思い出したのが、一年半ほど前に「櫻樹の塚」という小説を書かれた、たなか踏基さんのことです。
踏基さんとは、真塩紋弥のご縁でした。
何回かメール交換をするうちに、踏基さんの著書に「七日市藩和蘭薬記」というのがあることを知りました。
稲部市五郎とシーボルト、七日市藩と加賀藩、オランダと長崎そして上州をつなぐダイナミックなストーリーが展開される歴史小説です。
いつか稲部市五郎の墓を訪ねてみたいと思いながら、月日が経ってしまっていましたが、梅雨空の中、やっと訪ねることができました。
「七日市藩邸跡」の富岡高校前の道を横断し、上信電鉄の「上州七日市駅」へ向かうと、右側に「稲部市五郎種昌の碑」があります。

碑が建っている場所は、市五郎が死ぬまで入れられていた牢の跡地だそうです。
この碑を建てたのは、三山春秋にもあったように斎藤寿雄はじめ「北甘楽郡医師会」の会員達で、

碑背に30名の名前が刻まれています。
医師たちが建碑した理由について、たなか踏基さんは小説の終章でこう書いています。
稲部市五郎という人は、和蘭語の通詞(通訳)として蘭医書の原書を読むことで、薬や外科医術の知識・技術を得、シーボルトにも学んでいたのだそうです。
七日市藩の牢内に居ながら、藩医の求めに応じてその知識を伝えていたようで、それが甘楽郡一帯や吾妻郡にまで広まったということなのでしょう。
碑の左隣の立派な家は、碑背にも名前が刻まれている医師・保阪家です。
その先には、近代的な「保阪医院」があります。
碑から富岡製糸場方面へ400mほど行ったところに、稲部市五郎の墓があるという「金剛院」入口を示す石柱が建っています。
側面には、「小三位勲二等貴族院議員 子爵前田利定閣下書」と刻まれています。
七日市藩最後の藩主を父に持ち、逓信大臣、農商務大臣を務めたそうです。
山門の右裾に、「稲部先生ノ墓」と刻まれた石柱が建っています。
山門を潜ると、「極楽浄土池」や「水かけ不動尊」、「七福神堂」などがあって、実にセンスの良い立派な境内です。




稲部市五郎の墓を探して、本堂裏の墓地をぐるぐる回ってみましたが、見つかりません。
降参して庫裡へ行き、奥様にお聞きしました。
すると墓地の中ではなく、幼稚園側の門内隅に、ひっそり建っているのがそうだと教えて頂きました。

説明看板は、残念ながら紫外線にやられていて、文字がよく見えません。
墓石正面には、「和蘭通辞肥州長﨑稲部市五郎種昌之墓」と刻まれています。
側面の漢文については、たなか踏基さんの読み下し文を引用させて頂きましょう。
文中、「和蘭医某」(オランダ医なにがし)とはシーボルトのこと、「天文生某」(天文生なにがし)とは幕府天文方御書物奉行・高橋作左衛門景保(かげやす)のことで、国禁の大罪を犯した主要人物であったために、その名を明記するのを憚ったのであろうということです。
彼等がどのような国禁を犯したのかは、「シーボルト事件」(Wikipedia)をご参照ください。
稲部市五郎は、高橋作左衛門から預かった書類の中身を知ってか知らずか運搬し、シーボルトに直接手渡していたことで重い罪に問われたのです。
薬草採取を手伝う等してシーボルトの信頼を得、蘭方医学をシーボルトから懸命に学んだことで、深い関与を疑われたのかも知れません。
たなか踏基さんは、市五郎の墓について、こう記述しています。
七日市藩としては、市五郎の罪が冤罪であると確信していたのか、若しくは、たとえ罪人であっても領内の医学に大きな功績を遺したことに感謝したということなのか、いずれにしてもその死を深く悼んだことに間違いはありません。
皆さまもぜひ、世界遺産・富岡製糸場へ行った折には、少し足を延ばして、稲部市五郎の史跡を訪れてみては如何でしょうか。
少し前になりますが、上毛新聞の「三山春秋」にこんなコラムが載りました。
このコラムを読んで瞬時に思い出したのが、一年半ほど前に「櫻樹の塚」という小説を書かれた、たなか踏基さんのことです。
踏基さんとは、真塩紋弥のご縁でした。

稲部市五郎とシーボルト、七日市藩と加賀藩、オランダと長崎そして上州をつなぐダイナミックなストーリーが展開される歴史小説です。
いつか稲部市五郎の墓を訪ねてみたいと思いながら、月日が経ってしまっていましたが、梅雨空の中、やっと訪ねることができました。


碑が建っている場所は、市五郎が死ぬまで入れられていた牢の跡地だそうです。


碑背に30名の名前が刻まれています。
医師たちが建碑した理由について、たなか踏基さんは小説の終章でこう書いています。
「 | 後日七日市藩のあった北甘楽郡と吾妻郡中之条を中心とした地域に蘭方医が多数輩出した事実は否定できない。歯科医師すら誕生している。 |
十一年間もの間に入牢の稲部市五郎の直接指導の結果とは表向き言えないまでも、残された蘭学要諦の写本の種が両地域で芽を出し、周囲の行為で時機を見て結実した結果であることは間違いない。 | |
七日市藩の揚がり屋で永牢死亡した小通詞末席、稲部市五郎種昌五十九歳。 | |
その名を多くの甘楽郡、富岡住民のみならず、中之条住民も記憶に留めているのである。」 |
稲部市五郎という人は、和蘭語の通詞(通訳)として蘭医書の原書を読むことで、薬や外科医術の知識・技術を得、シーボルトにも学んでいたのだそうです。
七日市藩の牢内に居ながら、藩医の求めに応じてその知識を伝えていたようで、それが甘楽郡一帯や吾妻郡にまで広まったということなのでしょう。

その先には、近代的な「保阪医院」があります。

側面には、「小三位勲二等貴族院議員 子爵前田利定閣下書」と刻まれています。
七日市藩最後の藩主を父に持ち、逓信大臣、農商務大臣を務めたそうです。

山門を潜ると、「極楽浄土池」や「水かけ不動尊」、「七福神堂」などがあって、実にセンスの良い立派な境内です。




稲部市五郎の墓を探して、本堂裏の墓地をぐるぐる回ってみましたが、見つかりません。
降参して庫裡へ行き、奥様にお聞きしました。


説明看板は、残念ながら紫外線にやられていて、文字がよく見えません。
墓石正面には、「和蘭通辞肥州長﨑稲部市五郎種昌之墓」と刻まれています。
側面の漢文については、たなか踏基さんの読み下し文を引用させて頂きましょう。
「 | 肥前長崎の訳官稲部市五郎種昌、文政年間和蘭医某、東都(江戸)天文生某と私(ひそか)に音書(信書)を通ずることあるに依って辜(つみ)を得る。而して其徒三人各処に保放(追放)さる。 |
稲部氏廼(すなわち)、当藩中に十一年在り。中風に嬰(かか)り疾(や)む、終(つい)に天保十一年八月二十二日を以て監倉(牢屋)中に卒(死亡)す。 | |
法諡(ほうし:戒名)曰く、楽邦常念居士。 | |
聊(いささ)かその歳月を記し、之を示を以て来爾(らいじ:将来)に後(おく)る。」 | |
文中、「和蘭医某」(オランダ医なにがし)とはシーボルトのこと、「天文生某」(天文生なにがし)とは幕府天文方御書物奉行・高橋作左衛門景保(かげやす)のことで、国禁の大罪を犯した主要人物であったために、その名を明記するのを憚ったのであろうということです。
彼等がどのような国禁を犯したのかは、「シーボルト事件」(Wikipedia)をご参照ください。
稲部市五郎は、高橋作左衛門から預かった書類の中身を知ってか知らずか運搬し、シーボルトに直接手渡していたことで重い罪に問われたのです。
薬草採取を手伝う等してシーボルトの信頼を得、蘭方医学をシーボルトから懸命に学んだことで、深い関与を疑われたのかも知れません。
たなか踏基さんは、市五郎の墓について、こう記述しています。
「 | 天保十一年(1840)、稲部市五郎は座敷牢で十一年間暮らし、病のため亡くなった。 |
十代藩主前田利和(としよし)はこれを悼み、密かに亡骸を七日市の金剛院に葬り、高さ九十センチ、幅四十センチ、厚さ三十六センチ余の墓碑を建立した。 十一代藩主利豁(としあきら)も密かに弔っている。 |
|
当時罪人を埋葬したり弔うことは許されていない時代のことである。まして藩主自ら、この禁を犯していることに驚かされる。」 |
七日市藩としては、市五郎の罪が冤罪であると確信していたのか、若しくは、たとえ罪人であっても領内の医学に大きな功績を遺したことに感謝したということなのか、いずれにしてもその死を深く悼んだことに間違いはありません。
皆さまもぜひ、世界遺産・富岡製糸場へ行った折には、少し足を延ばして、稲部市五郎の史跡を訪れてみては如何でしょうか。
【稲部市五郎の碑・墓】