「芳迹不滅」碑の左に、清水寺の裏山に上る小道があり、「矢島八郎翁銅像入口」という小さな看板が立っています。
小道を上っていく途中に、
天地(あめつち)の
おのつからなる ふみよみて
まことの道を 人はゆかなむ
という歌碑があります。
田島尋枝は、このシリーズ32話でご紹介した深井仁子さんに、皇学を指導したという「清香庵」の主人です。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」で、「清香庵」はこう紹介されています。
「清香庵」が連雀町のどの辺にあったかというのは、昭和三十三年(1958)発行の田中友次郎著「大手前の子」の中で、著者の記憶によるという町の図に描かれていました。
実は3年前、田島尋枝氏の曽孫の方からメールを頂戴したことがあります。
このメールを頂いて初めて、清水寺に田島尋枝の歌碑があることを知りました。
また、ご本名は廣吉で、下横町の向雲寺にお墓があることも教えて頂きました。
深井仁子とともに、田島尋枝と「清香庵」という名前も、記憶しておきましょう。
さて、さらに小道を上って、田島尋枝の歌碑を建てたという矢島八郎に会いに行きましょうか。
小道を上っていく途中に、
天地(あめつち)の
おのつからなる ふみよみて
まことの道を 人はゆかなむ
田島尋枝
という歌碑があります。
田島尋枝は、このシリーズ32話でご紹介した深井仁子さんに、皇学を指導したという「清香庵」の主人です。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」で、「清香庵」はこう紹介されています。
「 | 連雀町にあり、家號をますやと云ひて三代相傳の鰻鱺(うなぎ)店なり。 |
開業の當時、其妻君即ち當主人の祖母は、江戸靈岸島の大黒屋に到り蒲焼の調理方を練習して、江戸前の喰い味専門にて賣出せしなり。 | |
當主の父は、業體に不似合なる有名の皇典學者にして、故小中村淸矩博士等と親友なりし。 | |
當主は、體軀布袋然として容貌惠比壽然たり。和歌に巧妙なり。 一見營業には疎きやに見えれども、其間に云ふ可らざるの妙を有し、愛顧する華客(とくい)多く繁盛しつゝあり。 蒲焼の風味も良く、座敷の設備も行届き居れり。」 |
「清香庵」が連雀町のどの辺にあったかというのは、昭和三十三年(1958)発行の田中友次郎著「大手前の子」の中で、著者の記憶によるという町の図に描かれていました。
実は3年前、田島尋枝氏の曽孫の方からメールを頂戴したことがあります。
「 | 突然のメール失礼します。 曽祖父のことが記されていたのでうれしくなってメールしました。 清水寺には曽祖父の歌碑もあります。 亡くなった後に矢島八郎さんたちが立ててくれたようです。(裏に発起人の記名があります)」 |
このメールを頂いて初めて、清水寺に田島尋枝の歌碑があることを知りました。
また、ご本名は廣吉で、下横町の向雲寺にお墓があることも教えて頂きました。
深井仁子とともに、田島尋枝と「清香庵」という名前も、記憶しておきましょう。
さて、さらに小道を上って、田島尋枝の歌碑を建てたという矢島八郎に会いに行きましょうか。