清水寺の石段がカギの手に曲がる所に、明治になって石段下から移されたという「馬頭観音堂」があります。
「馬頭観音堂」の周りには沢山の石碑や石塔がありますが、その中でひときわ大きな石碑が目を引きます。
明治期の教育者・深井仁子の徳を頌する「徳音碑」です。
この碑については、まだ駆け出しの頃、いちど記事にしたことがあります。→ ◇深井仁子さんって知ってますか?
碑文は難しい漢文で刻まれていますが、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」にその読み下し要約が載っています。
これによると、「壽碑」として幼稚園の庭に建てられたとあります。
掲載されている写真はぼんやりとしていますが、確かに背景が清水寺の石段ではないようですし、碑の周囲に石玉垣もあるようです。
形も同じようでもあり、違うようでもあり、よく分かりませんが、「大正三年十一月十八日」という日付や題・撰・書・建それぞれの人名は同じですので、おそらく同じもので、ある時移設されたものと思われます。
仁子さんが明治十一年(1878)宮元町に開設した「国振(くにふり)学校」と、 明治四十年(1907)に開設した「私立深井幼稚園」が、大正三年(1914)の「高崎市街全圖」に載っていました。
現在の地図だと、ちょうどこの辺ですね。
深井仁子さん、もう知る人も少ないのでしょうね。
清水寺の石段を上る時、一休みするのにちょうどいい場所に「徳音碑」があります。
どうぞ、深井仁子さんのことを思い出してやってください。
さて、一休みしたら、また上りましょう。
「馬頭観音堂」の周りには沢山の石碑や石塔がありますが、その中でひときわ大きな石碑が目を引きます。
明治期の教育者・深井仁子の徳を頌する「徳音碑」です。
この碑については、まだ駆け出しの頃、いちど記事にしたことがあります。→ ◇深井仁子さんって知ってますか?
碑文は難しい漢文で刻まれていますが、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」にその読み下し要約が載っています。
「 | 仁子ハ藩臣深井資治ノ三女、天保十二年二月二日生ル、其生ルニ先ダツ數月府君(ふくん:亡父)歿ス、母氏貞烈難苦鞠育(きくいく:養い育てる)ス、仁子長ジテ文ヲ修メ武ヲ習フ令名アリ、 |
時ニ勤王佐幕ノ論大ニ起ル、仁子慷慨大義ヲ唱フ、通常幗巾(くかんき:女性)ノ流ニアラズ、危難頻ニ迫ルモ毅然トシテ屈セズ、幸ニ其身ヲ全フセリ、 | |
明治戊寅ノ年、國振學校ヲ興シ、丁未更ラニ幼稚園ヲ開ク、教化ニ身ヲ致スコト三十有余年、後門人相謀リ壽碑ヲ其庭内ニ建テ徳ヲ頌ス、 | |
仁子終身嫁セズ、和歌ヲ詠ジ自ラ娯シム、其交友スル所ノモノハ天下知名ノ士ナリ、大正七年九月歿ス年七十七」 |
これによると、「壽碑」として幼稚園の庭に建てられたとあります。

形も同じようでもあり、違うようでもあり、よく分かりませんが、「大正三年十一月十八日」という日付や題・撰・書・建それぞれの人名は同じですので、おそらく同じもので、ある時移設されたものと思われます。
仁子さんが明治十一年(1878)宮元町に開設した「国振(くにふり)学校」と、 明治四十年(1907)に開設した「私立深井幼稚園」が、大正三年(1914)の「高崎市街全圖」に載っていました。
現在の地図だと、ちょうどこの辺ですね。
深井仁子さん、もう知る人も少ないのでしょうね。
清水寺の石段を上る時、一休みするのにちょうどいい場所に「徳音碑」があります。
どうぞ、深井仁子さんのことを思い出してやってください。
さて、一休みしたら、また上りましょう。