ヤホーで調べても、わからないかも知れない。
何を隠そう、私も知ったのはついこの間のことだ。
清水寺の石段を登り、仁王門を潜ると少し先に、「馬頭観音堂」がある。
その左に、大きな石碑が建っているが、それが「深井仁子先生顕彰碑」だ。
深井仁子(じんこ)は、天保12年(1841)高崎藩士深井四郎資治の三女として生まれた。
父は、仁子が生まれる数ヶ月前に病没しており、母は艱苦(かんく)によく耐えて仁子を養育したとある。
仁子は、女ながらに文武両道に励んだようであるが、特に、田島尋枝(ひろえ)に「皇学」を学んだことが後の行動に大きく影響している。
田島尋枝という人もなかなかの人物で、連雀町の「清香庵」という鰻屋の亭主だというが、片手に団扇、片手に本、鰻をさばく時でさえ本をそばに置いていたという。
時は勤王佐幕の嵐が吹き荒れている時代、将軍譜代の家柄である高崎藩は当然佐幕派であるが、皇学を学んだ仁子は堂々と勤王の大義を唱えた。
ために、反対派から命を狙われ、毒を盛られて危うく一命を落とすところだったそうである。
御世は明治に変わり、仁子は高崎の教育界に先駆的な役割を果たす。
明治11年(1878)、宮元町に私学「国振(くにふり)学校」を開設、女子教育に力を注いだ。
明治40年(1907)には「私立深井幼稚園」も併設している。
幕末の女傑、深井仁子は人々の記憶から忘れられようとしている。
石段の「徳音」碑に、もういちど光を当てて差し上げたいものだ。
何を隠そう、私も知ったのはついこの間のことだ。
清水寺の石段を登り、仁王門を潜ると少し先に、「馬頭観音堂」がある。
その左に、大きな石碑が建っているが、それが「深井仁子先生顕彰碑」だ。
深井仁子(じんこ)は、天保12年(1841)高崎藩士深井四郎資治の三女として生まれた。
父は、仁子が生まれる数ヶ月前に病没しており、母は艱苦(かんく)によく耐えて仁子を養育したとある。
仁子は、女ながらに文武両道に励んだようであるが、特に、田島尋枝(ひろえ)に「皇学」を学んだことが後の行動に大きく影響している。
田島尋枝という人もなかなかの人物で、連雀町の「清香庵」という鰻屋の亭主だというが、片手に団扇、片手に本、鰻をさばく時でさえ本をそばに置いていたという。
時は勤王佐幕の嵐が吹き荒れている時代、将軍譜代の家柄である高崎藩は当然佐幕派であるが、皇学を学んだ仁子は堂々と勤王の大義を唱えた。
ために、反対派から命を狙われ、毒を盛られて危うく一命を落とすところだったそうである。
御世は明治に変わり、仁子は高崎の教育界に先駆的な役割を果たす。
明治11年(1878)、宮元町に私学「国振(くにふり)学校」を開設、女子教育に力を注いだ。
明治40年(1907)には「私立深井幼稚園」も併設している。
幕末の女傑、深井仁子は人々の記憶から忘れられようとしている。
石段の「徳音」碑に、もういちど光を当てて差し上げたいものだ。
(参考図書:「高崎の散歩道 第11集」「実録たかさき」)