
脚気の人は清水寺からの良い景色と良い空気のもとで散歩していれば、半月かひと月で快復すると言ってます。
費用は一人一昼夜十二銭とありますから、ひと月三円六十銭。
こりゃ、当たればいい収入になるでしょう。
「新編高崎市史」によると、田村仙岳は明治三十一年(1898)に、「脚気患者転地養生園」として清水寺地内に遊園地を開く計画を立て、一部実施に移しているということです。
(新編高崎市史 資料編14)
仙岳さんはその翌年の明治三十二年(1899)に74歳で亡くなっているのですが、明治三十四年(1901)発行の「大日本名蹟図誌上野国之部」に載っている「華蔵山清水寺之景」を見ると、仙岳さんの計画したであろう養生園の姿を窺い知ることができます。
楼門の左手に「客殿」というのがあり、水が不便であったにもかかわらず「水舎」とか「浴室」もあり、「散策路」や休憩のための「四阿や」も整備されています。

挿絵のすぐ下に、「本堂宇改築し四十三年…」と書いてあります。
ということは、明治になる直前に本堂か観音堂を改築しているということになります。
その資金は一体どこから出たのでしょうか。
幕末の財政破綻状態の高崎藩でしょうか、数軒しかないという檀家でしょうか、それとも誰かから借金でもしたのでしょうか。
どうもこの辺に、「石段下にあった本堂が明治になってから石段上に移った。」という理由があるように思われてなりません。
例によって迷道院の根拠なき推測ですが、仙岳さんは、石段下の本堂を撤去して観音堂と一緒にし、馬頭観音堂も石段途中に移して、更地にした土地を売却してお金を工面する必要があったのではないでしょうか。
また広告には、「當山五十三年目にして大開帳を執行す」ともあります。
53年を逆算すると安政三年(1856)で、仙岳さんが清水寺の住職になって6年目の年です。
「新編高崎市史 通史編3」によると、その前に御開帳されたのは正徳五年(1715)だというのです。
清水寺は享保二年(1717)から弘化五年(1848)までの131年間は無住だったということもあって、嘉永三年(1850)に仙岳さんが来てようやく御開帳されることになった訳です。
この時の御開帳について、「新編高崎市史」にはこう書かれています。
「 | 安政三年五月十三日、諸人結縁のため、清水寺は千手観音の開帳を行うことを藩へ願い出た。 |
期間は翌四年三月十日から四月十日までの三十日間とし、所々に開帳を知らせる建札を立てることにした。藩では公儀へ達して、許可が下りたのは十二月十六日であった。 | |
建札は、 近いところでは高崎宿・新喜町・通町・相生町・常盤町・聖石出口・江木新田入口・倉賀野宿、 東毛の木崎・玉村・世良田・妻沼・太田・桐生・大間々、 西毛では新町宿・金古・室田・神山・一ノ宮・宮崎・下仁田・吉井・富岡・藤岡・鬼石、 中毛の前橋・白井・伊香保・渋川、 北毛の沼田・吾妻郡五か所、 武州では熊谷宿・深谷宿・本庄宿・小川・秩父郡四か所 であった。 |
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当時の主要な街道筋を広域に網羅しているのがわかる。 より多くの参詣人を期待していることと、それほど広域に清水寺の観音が知れ渡っていたことを物語っている。」 |
きっと仙岳さんは、明治に入ってからも御開帳をやって参詣人を呼び寄せたかっただろうと思うのですが、その遺志は次の住職・隆応師が受け継いだようです。
いま、訪れる人も少なくなった清水寺、いまこそ仙岳さんと同じように、多くの人を呼び寄せる手だてを講じる必要がありそうです。
さて、また少し石段を上るとしましょうか。