堰代町に蟹下苑(かにしたえん)
これも市中の一名所
更に田圃を打過ぎて
電燈会社に牧牛場
これも市中の一名所
更に田圃を打過ぎて
電燈会社に牧牛場
「堰代町」(せきしろちょう)は明治六年(1873)に成立した町で(四年あるいは七年とする説も)、江戸時代には用水を管理する「堰方役人」と、城郭及び周辺の守備を任された「城代組」の屋敷があったので、堰方の「堰」と城代の「代」をとって町名にしました。
「蟹下苑」というのは、貴族院議員・桜井伊兵衛の別荘でした。
過去記事「蟹下苑」にも書いているのですが、私の通学路沿いにありました。
朝、家を出ると高崎神社境内の貸本屋さんに寄り、本殿の横を通って行きます。
境内裏の細い路地を抜けて、
右に曲がると細くて急な坂道の上に出ます。
左側の塀の中が「蟹下苑」で、私が子どもの頃はネットフェンスだったので、中の草叢たる状態を目にすることができました。
今は坂を下りると中央小学校ですが、高崎唱歌の頃はまだ田圃で、その先に電燈会社「高崎水力電気会社」があった訳です。
そして、その隣にあったのが「栗本牧場」です。
明治十三年(1880)旧武州忍藩藩士・栗本秀雄の創立だそうですが、明治三十年(1897)の「高崎繁盛記」では、「牛乳搾取所 牧牛社 栗本信作」と表記されています。
いつから「栗本牧場」という名前になったのか分かりませんが、明治四十三年(1910)の「高崎商工案内」ではその名前で広告が出されています。
昭和二十五年(1950)に牧場はやめて乳製品の生産工場「上毛食品工業」となり、販売は「栗本牛乳」として行うようになります。
昭和三十四、五年(1959、60)の中央小学校の写真です。
下の方に写っているのが、「上毛食品工業」と「栗本牛乳」です。
昭和六十二年(1987)には矢島町に新工場を建てて移転しています。
一方、「高崎水力電気」は大正十年(1921)に「東京電燈」に合併され、その跡地を含む田地に宮元町から「中央尋常高等小学校」が移って来たのは大正十二年(1923)です。
現在の中央小学校東門のイチョウがある辺りが「高崎水力電気会社」、手前のマンションの所が「栗本牛乳」でした。
中央小学校も変わりました。
平成十九年(2007)に新築された校舎はずいぶん小さくて、その分、校庭がずいぶん広くなったように感じます。
児童数が少なくなったんでしょうね。
私が入学した時なんぞは1クラス50人、それが7クラスもあったんですから。
貧しい家が多かったのに、何でこんなに子どもがいたのかなぁ。
いまの少子化対策、何かが違ってんじゃないかい?