汽車の線路はたて横に
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
市(まち)の繁栄日に進む
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
市(まち)の繁栄日に進む
今日は電燈と電話の話です。
高崎市内に初めて電燈の灯りがともったのは、明治三十七年(1904)でした。
田村民男氏著「群馬の水力発電史」にこう書かれています。
「 | 高崎市では須藤清七、小林弥七らによって、明治36年6月25日に高崎水力電気会社が資本金10万円で設置され、本社を常盤町に置いた。 |
同年9月12日、烏川上流の室田町上室田地区に上室田発電所の建設に着手し、翌37年8月30日に竣工し、11月に完成した小島変電所の落成を待って高崎市に送電を開始した。 | |
しかし、実際にランプに代わって高崎市の各家庭に電燈がついたのは37年12月1日であった。」 |
「高崎水力電気」の本社はここにありました。
今の「中央小学校」がある場所ですね。
そばにある「コ」の字形は高崎城の角馬出し跡、通称「ぼうず山」です。
建物はこんなでした。
手前の木柵は、たぶん明治十三年(1880)創業の「栗本牧場」だと思います。
明治三十七年(1904)版「高崎繁昌記」に、電力供給の規模が書かれています。
「 | 開業当日の既設の分2,500余燈、取得中のものを合すれば4,000燈に上るの盛況を呈し、且つ水源発電地は天然好地形をなし、費用少なくして、水力豊富、燈光熾盛なる為め、1個月終夜燈16燭光75銭、同10燭光55銭のみ、其廉価と好成績とは全国60有余の電燈会社中第一に位し・・・」 |
また「上室田発電所」については、
「 | 水源地は市外十哩(マイル)を距(へだ)て群馬郡上室田山中に在りて、烏川の水流を125尺の高処(字、本荘)より直下の低地に導き茲(ここ)に発電所(字、初越)を構成し、有効動力450馬力、(略)其発電機(3相交流300kwペルトン水車直結式)4台を用うるに足るの規模を有するも、目下は発電機を1台に止め300kw(即ち450馬力、7,500燈)を発生せしむる・・・」 |
「上室田発電所」は、「室田発電所」として現在も稼働しています。
開業以降の利用者増加は目覚しいものがあります。
高崎水力電気の電力は、鉄道の発展にも大きく貢献します。
明治43年(1910)には高崎-渋川間の全面電化(チンチン電車)、大正13年(1924)には高崎-下仁田間の全面電化(上信電鉄)がなされます。
話変わって、電話の話。
高崎は前橋に遅れること三年、明治三十九年(1906)ようやく加入数160で電話業務が開始します。
電話局は、連雀町の「高崎郵便電信局」に併設されました。
加入者には「通話せんとするときの心得」というのが配布されたそうです。(新編高崎市史資料編9)
一、 | 電話加入者が、任意の加入者に向って通話せんとするときは、先づ電話器に向って、受話器の懸りし儘、発電器の取手を数回々転して、次に電話器に(受話器を?)外して耳に当て、交換手の出づるを待たる可し |
二、 | 交換手出でゝ、モシモシ何番と問ふときは、直ちに呼出さんとする番号、(例えば100番又は200番の如し)を答へ、相手加入者の出でゝ、応答するを待つ可し |
三、 | 暫く待ちて相手加入者出でざるときは、又受話器を懸けて、数回発電器を廻し、受話器を耳に当てゝ暫時待つ可し | |
四、 | 此場合に於て交換手出でしときは、未だ出ませんと答へ、若し相手加入者出でしときは、直ちに通話す可し | |
五、 | 通話中には、決して発電器を廻す可からず | |
六、 | 終話の時は、一旦受話器を懸金物に懸けて、発電器を一、二回々転し、然らざれば、交換手に終話を知らしむること、能わざるなり | |
(以下省略) |
それでも「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には加入者は225に増え、高崎停車場前にも公衆電話が設置されて、加入者以外の人も掛けることが出来るようになりました。
面白い話があって、「高崎新聞」のアーカイブ「初めて電話が通じた日」に、こんな逸話が載っています。
「 | 戦後、電信電話公社が発足し、通信需要も大きく伸びた。しかし、まだ交換手が手動でつないでいた時代で、しかも高崎電話局の設備は旧式で、高崎から東京に電話を申し込んで相手が出るまで5時間かかっており、「鉄道よりも遅い」と不評をかっていた。」 |
いや、もしかすると加入者数が少ないからもっと早くつながったのかな?
さて、歌はこの後「水道や」と続くのですが、また次回ですね。