空にたなびく煤煙は
常盤歌川並榎町
中に聳ゆる煙突は
地方に名高き鉄工場
常盤歌川並榎町
中に聳ゆる煙突は
地方に名高き鉄工場
その鉄工場が、歌川町の「小島鉄工所」です。
明治四十三年(1910)発行の「高崎商工案内」には、こう記載されています。
沿革 | 當工場は文政六年(1823)の創業にして專ら農具 喰器等を製造し来たりたるに、世運の進歩に伴ひ明治二十二年(1889)より漸次に擴張し、蒸氣機關及だらい盤其他仕上げ器械を据附け、諸機械類ヲ製造販賣するに至れり |
製造品目 | 車輪、製鑵(缶)、諸機械、建築用鐵物、鋤、鍬、鍋、釜 |
販路 | 長野、新潟、栃木、埼玉、東京、群馬の一府五縣及東北地方 |
電動力 | 十馬力 |
石油發動器 | 拾五馬力 |
一ヶ年製産額 | 八萬圓 |
職工 | 百拾名 |
「小島鐡工所200年史」によると、「九蔵町に居住する小林氏が下並榎村地内の筏場(いかだば)に吹場(ふきば:金属の精練場所)を設けて営業を始めた」とあります。
その創業はいつなのかというと、文化六年(1809)とされています。
社地にある「筏場稲荷」の石灯籠に刻まれている年を、創立年としているのだそうです。
「筏場」のことについては、「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にこう書かれています。
「 | 筏場ハ常盤町入口ノ木戸外ヲ云、烏川ヲ渡リ板鼻ニ行ク中山道ノ往還也、 |
此地ヲ筏場ト呼ブコトハ、昔信州本山ヨリ来ル材木ヲ、此河岸ニテ筏ニ組テ、江戸ニ下ス故ニ名ツク、(略) | |
右ノ方ニ船頭小屋五軒アリ、是昔本町ヨリ出シ置シ番人、或いハ筏士等ノ子孫也、今ハ渡守トナル、故ニ船頭ト呼トナリ、・・・」 |
明治四年(1871)に「筏場」「五軒町」と「(赤坂)下ノ町」の一部とを併せて出来たのが「歌川町」です。
12年前、この辺のことを記事にしていました。
◇煉瓦つながり
平成十六年(2004)につくられたお散歩マップもな、かなかいいです。
◇「赤坂・常盤・歌川めぐり」
小島鉄工所の歴史を、もう少し「200年史」から拾ってみましょう。
「 | 小島弥兵衛は天保十五年(1844)六月、吾妻郡原町(東吾妻町)の鋳物師小島七左衛門別家(分家)の由緒をもって、京都の真継(まつぎ)家から免許状を取得したことから、以後小島姓を名乗るようになった。 |
当時の鋳物師は梵鐘・半鐘・鰐口などのほか鍋・釜・鉄瓶・火鉢など日常品も造り、「鍋屋」の屋号もあった。(略) | |
明治二年(1869)に、三代目小島彌平(1853~1931)が十六歳の若さで家業の「鍋屋」を継いだ。 明治初年の内に、彌平は江戸時代以来の「鋳物師」(いもじ)の株を継承する高崎唯一の鋳物業者となった。 |
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明治十七年(1884)、皇居二重橋造営に際し、設計者久米民之助氏の依頼により、橋桁及び装飾部を製造したことは、彌平がようやく頭角を現してきたことを示した。 | |
彌平の鉄工所は、明治二十二年(1889)を重要な節目に、明治二十年代から三十年代にかけて、最初の大きな革新を遂げた。 | |
地域のあらゆるニーズに対応する鉄工所は、地域産業の近代化の進展に対応して機械製品の生産への進出を図り、また、キューポラ導入をはじめとする日本鋳造業自体の近代化に対応して、工場・設備も近代化、機械化を推進していった。即ち、工場敷地を3000坪に拡張するとともに、主要工場を大規模で頑丈な煉瓦造りとし、その他工場を整然と配置した。 敷地内に煉瓦製造所が設けられ、煉瓦は自製された。」 |
大正五年(1916)の「髙崎市街全圖」を見ると、「小島鉄工所」の北方に「小島別邸」というのがあります。
ここが、13年前に記事にした五輪坂の名庭園「望浅閣」です。
当時はすぐ崖下が烏川だったので、舟で乗付ていたようです。
歌川町で誕生した「小島鉄工所」は、花も嵐もあったであろう長い歴史を乗り越えて、昭和四十四年(1969)群馬八幡に新工場を建設して移転しました。
跡地には「パークレーン高崎」が、高崎唯一のボウリング場として残っています。
この辺、これからまだまだ変わっていくんだろうなぁ。