其外水利を応用し
染物業や製糸業
社名にしるき旭とて
日に増し造る国の富
染物業や製糸業
社名にしるき旭とて
日に増し造る国の富
常盤町・歌川町・並榎町には水路が沢山ありました。
その水路の水を利用していたのが、染物屋さんです。
明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には、常盤町に2軒、歌川町に2軒の染物屋さんが載っています。
いま常盤町にある「中村染工場」も明治三十年(1897)創業ということですから、載っていてもよさそうなんですが、便覧が途中で募集中止になったようなのでそのせいかも知れません。
「中村染工場」が利用していたのは高崎城「遠構え」の水で、長松寺裏から神武坂を下ってくる水路です。
その水路はここで二本に分かれ、一本は南に曲がって「中村染工場」の裏を通ります。
今は暗渠になっていますが、昔はこの水路で染物を洗っていた訳です。
水路をずーっと辿っていくと、赤坂から下って来る道に出ます。
交差した水路はさらに南へ下っていきます。
あぁ、この角にあった公共栓は無くなっちゃったんだ。
聞けば、自動車がぶつかったんだとか。
こらっ!ですね。
さらに南へ辿ると、中央小学校の所に出ます。
水路はここから右に曲がってもう一本の水路と合流し、最終的に烏川に落ちることになります。
「中村染工場」の所から別れたもう一本の水路は、「美保酒類」の脇を通っていきます。
この水路を辿って行くと、「山田文庫」の脇を通って、赤坂から下って来る道と交差します。
道を渡った所に、かつては水車が回っていたらしいです。
さて次の歌詞、「社名にしるき旭とて」ですが。
これは、明治十九年(1886)茂木惣兵衛が地元商人の橋本清七、絹川嘉平二らと共に立ち上げた製糸所「旭社」のことです。
烏川沿いにありました。
絵葉書の写真では工場の姿はよく分かりませんが、高い煙突がシンボルです。
滔々と流れる烏川の水を動力源として利用した訳です。
「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には「茂木製糸所」と改称していたのですが、商標にはちゃんと「ASAHISYA SEISHI」と標記されています。
「旭社」「茂木製糸所」の歴史については、過去記事でご覧ください。
前回の「小島鉄工所」とも大いに関係があるんです。
◇高崎の絹遺跡(第三話)
それにしても、昔の人は身近で小さな水力をなんと上手に利用していたものかと思います。
いま電力不足が深刻だと騒がれていますが、昔の人を見習って、小水力を利用した地産地消型の発電を普及させたいものです。
原発だけは、もう真っ平ご免です。