門徒宗なる覚法寺
寺門の前を過ぎ行けば
境内広き祠あり
熊野の神社鎮座せり
寺門の前を過ぎ行けば
境内広き祠あり
熊野の神社鎮座せり
「覚法寺」の宗派を、高崎唱歌では「門徒宗」と言っていますが、高崎寿奈子では「浄土真宗」、高崎志では「一向宗」となっていて、まちまちです。
現在は「浄土真宗」で落ち着いていますが、これは開祖以来の歴史的宗名論争が戦後まで続いたことによるもののようです。
詳しく知りたい方は、こちらをご参照ください。
現在の山門と本堂は西の堰代町側を向いていますが、その時代時代であちこち向きを変えていたようです。
「高崎志」にはこう書いてあります。
門 | 北向、近頃迄門及諸堂皆南向ナリシヲ、安永三年甲午二月類焼ノ後、アラタメテ北向トス。 |
本堂 | 東向、八間ニ九間、瓦葺、本尊阿弥陀ノ木像ヲ安ズ。 |
明治三十年(1897)頃の絵図では「高崎志」の記述通り、門は北向き、本堂は東向きです。
実は私、堰代町に住んでいたことがありまして、東向きの家でした。
その我が家から道越しに撮った「覚法寺」は、たしかに本堂の背中が見えてます。
門と本堂が現在の西向きになったのは、堰代町側の道路が拡幅された昭和五十四年(1979)のことです。
道路拡幅前の、「覚法寺」北西角から見た堰代町側の通りです。
それが今ではこんなですから。
なんとまぁ、様変わりしたもんです。
嘉多町側にあった「寺門の前を過ぎ行けば」、突き当りが、「熊野神社」です。
「熊野神社」の由緒と沿革を、「新編高崎市史 資料編14」から引用します。
「 | 和田義国の子、小太郎正信は、寛元年中(1243~47)に赤坂明神の社地榎森(烏川の左岸、現在の和田橋附近)に二ノ宮・熊野・御霊の三社を勧請した。 |
その後慶長三年(1598)井伊直政が高崎築城と町割りの際に熊野社(熊野大権現)を榎森から赤坂の諏訪神社の社地(今の高崎神社の地)に移し、高崎の総鎮守とした。 以後歴代高崎藩主が崇敬した二ノ宮社は城内に残し井伊氏の鎮護神とし、御霊(五霊)社は貝沢の地に移して祀っている。 |
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熊野神社は明治三年(1870)に社格制度により村社となり、さらに同十八年(1885)三月に郷社となった。 | |
明治四十年(1907)八月二十四日、当時の市域最大の合併が行われた。 即ち境内末社十二社、および市内十四町にあった二十八社を合併し、同時に郷社高崎神社と改称した。 |
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その後同年九月十七日には宮元町頼政神社境内の神明宮、同九月二十七日には弓町の稲荷神社、さらに同四十三年(1910)五月九日、下並榎村(並榎町)字幅の神明宮と境内末社四社を合併、同年十月二十日には北通町稲荷神社を相次いで合併、合計市内十七町鎮座の三十六社を合併して、文字通り高崎の代表的な総鎮守となった。 | |
大正十四年(1925)三月三十一日、市域で唯一、県下では玉村八幡宮と共に十番目の県社に昇格した。(略) | |
昭和四年、美保神社の分霊を祀り、大国神社と合わせゑびす講を始めた。」 |
ということで、今では誰もが知る「県社 高崎神社」です。
私が小学校へ入学する頃の「高崎神社」は、こんな感じでした。
入学衣装はすべて「寅さん」が揃えてくれました。
◇あの頃みんな(?)貧乏だった
この頃の貧乏話なら腐るほどあります。
◇人情ラーメン物語
閑話休題。
昭和四十五年(1970)には結婚式場「新生会館」(現ホワイトイン高崎)がオープンし、昭和五十六年(1981)には現在の新しい社殿が完成しました。
境内も私が子どもの頃とは随分と様変わりしました。
この辺には、本多さんという駄菓子屋さんがありました。
貸本もやってて、私は常連客でした。
小学校へ行く時に前の日に借りた漫画本を返し、学校が終わるとまた本多さんに寄って、漫画本を借りてから家に帰るという毎日でした。
一冊借りるのに三冊はただで立ち読みするような子どもだったので、本多さんとすれば嫌な客だったにちがいありません。
「高崎ライオンズクラブ」の事務所になっているこの建物の所には、土俵があって、夏祭りかなんかの時は、素人相撲大会をやってましたね。
旅回りの見世物とか、お化け屋敷とかが小屋掛けしてたのもこの辺でした。
今は石段の上に移された手水舎も、ここにありました。
駐車場になっている所には、神楽殿というか舞台というかがありました。
縁日には、旅回り一座が芝居や奇術、アクロバットに歌謡ショーで楽しませてくれました。
市民参加の、のど自慢大会なんてのもありましたね。
みんなが一番興奮するのが「福投げ」で、舞台の上から投げられるお菓子とか、商品が当たる福くじを夢中になって奪い合ったもんです。
県社への「昇格記念之碑」も、ずいぶん台石が低くなっちゃいました。
因みに、ふくれっ面で写ってるのは中学一年生の私です。
初めてかけた眼鏡で物はよく見えるようになりましたが、世間のことはまるで見えてない生意気盛りです。
「ホワイトイン高崎」は二年後をめどに建て直しが計画されており、敷地の一部も売却されるそうです。
バス停の前辺りが、我が家だったんですよね。
狭いながらも、楽しい我が家でした。