昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。
これを、もう少し簡略化したのがこちらです。↓
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に添付されていたものですが、図中に「鎌倉道」という文字が見えます。
「高崎市史」には、次のような記述があります。
図中の「馬上宿」(ばじょうじゅく・うまあげじゅく・ばあげじゅく)から「金井宿」となっている道は、現在のどの辺なのでしょうか。
宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子(すなご)」には、このような記述があります。
この記述からすると、左図の赤いラインということになり、現在の高崎総合医療センター(旧・国立高崎病院)辺りから、市立高松中学校にかけて鎌倉街道が通っていたようです。
現在は大きな建物が建ち並んでいますので、古の道を歩くことはできません。
止むを得ず、市庁舎前を右に行って「シンフォニーロード」を北へ進むことに致します。
「シンフォニーロード」が高崎駅西口から音楽センター脇まで突き抜けたのは、平成六年(1994)のことです。
それまでは、高崎駅西口前の道は、「信濃屋旅館」と「新(あら)町交番」で突き当たって、中山道との丁字路になっていました。
左の写真は昭和六十年(1985)撮影の航空写真ですが、「シンフォニーロード」(黄色の破線)ができる前の様子が分かります。
今の市庁舎がある所には「市立第三中学校」、シティギャラリーのある所にはわが母校「市立第二中学校」がありました。
信号の角の植え込みに、こんなのが建っていました。→
「高崎経済大学 開学の地」などと刻んであります。
因みに、高崎経済大学の学章のデザインは、高崎藩主・大河内氏の家紋「高崎扇」が元になっています。
←この写真を見て、「懐かしい!」と思うご年配もいることでしょう。
現在のスズランデパート前から、音楽センター方向を見ています。
左端の石垣とその上の「飛龍の松」が、今も同じ場所にありますので、見当がつくでしょうか。
取り壊し中の木造建屋は、もともと陸軍歩兵第十五連隊(後・東部38部隊)の兵舎でした。
終戦後、この兵舎は様々な施設として利用されました。
真っ先に利用したのは進駐軍です。
200人の米兵が駐留し、10万坪の連隊跡地を管理下に置きました。
戦地からの引揚者の住宅としても使用されました。
その兵舎を使って昭和二十七年(1952)に開校したのが、「高崎経済大学」の前身となる「高崎市立短期大学」でした。
でも、ここで開学したのは高崎経済大学だけじゃありません。
昭和二十二年(1947)には、群馬大学の前身である「群馬青年師範学校」も置かれました。
そして、「高崎市立第二中学校」や「東京農大二高」も、みなこの兵舎から始まったのです。
石碑には、それらのことも刻んで欲しかったと思います。
おやおや、ほとんど歩かない内に、こんなに長くなってしまいました。
続きは、次回に致しましょう。
これを、もう少し簡略化したのがこちらです。↓
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に添付されていたものですが、図中に「鎌倉道」という文字が見えます。
「高崎市史」には、次のような記述があります。
「 | 抑々(そもそも)本市ハ今ヨリ六百八十餘年前、和田義盛ノ六子義信、白川郷二墊居シ、其子正信、寛元年中此ノ地ニ移リ住シ和田ト稱ス、當時既ニ鎌倉街道ノ一驛トシテ稍々(やや)市街ノ形ヲナシタルモノノ如シ・・・」 |
「 | 鎌倉開府以來、鎌倉街道タリシ時ハ、金井宿、馬上宿、植横宿ノ名アリ、和田氏ニ至リ和田宿ノ名起リ、市街ヲ形成セリ、當時ノ通路トシテハ、後世ノ赤坂門ヲ置カレシ所ヨリ、現今ノ榮内烏川ニ沿ヒ、公園地内ヲ通過シ、小万坂ニ出シト云フ、・・・」 |
図中の「馬上宿」(ばじょうじゅく・うまあげじゅく・ばあげじゅく)から「金井宿」となっている道は、現在のどの辺なのでしょうか。
宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子(すなご)」には、このような記述があります。
「 | ・・・馬上宿(今城ノ二ノ丸南中門ノ内ナリ)、金井宿(今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)・・・」 |
この記述からすると、左図の赤いラインということになり、現在の高崎総合医療センター(旧・国立高崎病院)辺りから、市立高松中学校にかけて鎌倉街道が通っていたようです。
現在は大きな建物が建ち並んでいますので、古の道を歩くことはできません。
止むを得ず、市庁舎前を右に行って「シンフォニーロード」を北へ進むことに致します。
「シンフォニーロード」が高崎駅西口から音楽センター脇まで突き抜けたのは、平成六年(1994)のことです。
それまでは、高崎駅西口前の道は、「信濃屋旅館」と「新(あら)町交番」で突き当たって、中山道との丁字路になっていました。
左の写真は昭和六十年(1985)撮影の航空写真ですが、「シンフォニーロード」(黄色の破線)ができる前の様子が分かります。
今の市庁舎がある所には「市立第三中学校」、シティギャラリーのある所にはわが母校「市立第二中学校」がありました。
信号の角の植え込みに、こんなのが建っていました。→
「高崎経済大学 開学の地」などと刻んであります。
因みに、高崎経済大学の学章のデザインは、高崎藩主・大河内氏の家紋「高崎扇」が元になっています。
←この写真を見て、「懐かしい!」と思うご年配もいることでしょう。
現在のスズランデパート前から、音楽センター方向を見ています。
左端の石垣とその上の「飛龍の松」が、今も同じ場所にありますので、見当がつくでしょうか。
取り壊し中の木造建屋は、もともと陸軍歩兵第十五連隊(後・東部38部隊)の兵舎でした。
終戦後、この兵舎は様々な施設として利用されました。
真っ先に利用したのは進駐軍です。
200人の米兵が駐留し、10万坪の連隊跡地を管理下に置きました。
戦地からの引揚者の住宅としても使用されました。
その兵舎を使って昭和二十七年(1952)に開校したのが、「高崎経済大学」の前身となる「高崎市立短期大学」でした。
でも、ここで開学したのは高崎経済大学だけじゃありません。
昭和二十二年(1947)には、群馬大学の前身である「群馬青年師範学校」も置かれました。
そして、「高崎市立第二中学校」や「東京農大二高」も、みなこの兵舎から始まったのです。
石碑には、それらのことも刻んで欲しかったと思います。
おやおや、ほとんど歩かない内に、こんなに長くなってしまいました。
続きは、次回に致しましょう。
【「高崎経済大学 開学の地」碑】