「シンフォニーロード」を北に向かう道には、「鎌倉街道」を偲ばせるものは何一つありませんが、私にとっては子どもの頃毎日通っていた懐かしい道です。
あの頃は、この辺のことを「連隊」※と呼ぶ人がいましたが、今はもういなくなりましたねぇ。
「もてなし広場」のところに高崎市役所があったということも、だんだん忘れられていくのでしょうか。
←「もてなし広場のいわれ」というプレートが埋め込まれたモニュメントが建っています。
写真には、昔の市庁舎が写っています。
左側の建物は中央消防署、高い塔は火の見の望楼です。
子ども達が、いきなり「見学させてくださーい。」と言ってきても、消防署のおじさんは嫌がらずに望楼に登らせてくれました。
おおらかな時代でした。
一本のヒマラヤ杉の根元には、「ヒマラヤスギの由来」という石板が埋め込まれています。
先ほどの「もてなし広場のいわれ」にしても、この「ヒマラヤスギの由来」にしても、これを残したかった人の思いが何となく分かるんです。
その思いを、高崎の町全体に広げられないものでしょうか。
今は消えてしまった昔の町並みを、同じように写真入りモニュメントとして、町のあちこちに建てるのです。
年配の人は「懐かしー!」と言い、若い人は「そーなーん!」と言い、観光客は・・・さて、何と言うかな?
「もてなし広場」の一隅に、松と石碑が建っています。
「聖蹟記念碑」と刻まれた石碑には、昭和九年(1934)の陸軍特別大演習に天皇陛下が御臨幸になり、それを記念して松の樹を植え、「振武之松」と名付けたと記されています。
昭和三十二年(1957)のこの辺りの風景を、伊藤富太郎氏が写真で残して下さっています。
右側に「振武之松」と石碑が写ってますので、位置関係が分かるでしょうか。
道の向こうの建屋群は、「専売公社」(現・日本たばこ産業)です。
専売公社が移転した跡地には、昭和六十二年(1987)に「市立高松中学校」が建設され、平成二十三年(2011)には「高崎市総合保健センター」と「市立中央図書館」が建設されました。
ここが高崎城の本丸跡だというので、建設工事に先立って発掘調査が行われ、平成二十一年(2009)にも本丸堀の発掘調査が行われました。
貴重な高崎城の遺構が発掘されたのですが、再び埋め戻されてしまいました。
そこに建てられた「高崎市総合保健センター」の前に、植え込みがあります。
ちょっと見、どこでも見かけるような築山のように見えますが、近くへ行くとこんな風になっています。 ↓
実はこれ、高崎城の遺構の一部なんです。
説明看板もとても詳しく書かれていて、興味をそそられます。
ただ、惜しいかな、場所があまりにも奥過ぎます。
車の利用者はもちろん、歩道を歩く人すらこれに気付かないんじゃないでしょうか。
せめて、歩道から見える場所に案内看板を立てるべきだと思いますが。
もっと言えば、このすぐ近くに、高崎城の「天守閣」にあたる「三層櫓」が、明治初期まで建っていたということも標記すべきでしょう。
ちょうど、この2つの建物の間の道、国道17号とぶつかるちょっと手前辺りだったようです。
高崎城が「天守閣」でなく、三層の「櫓」としたのは、幕府が天守を築くのを禁じた後の構築であったためだそうです。
さらに、「櫓」と称して天守に等しい高層櫓の建設を禁ずるため、定めには「三階より高き櫓はなきことなり。」とあるので、高崎城は「三層櫓」となったようですが、実質は「天守」だった訳です。
群馬県下で天守のあった城は、前橋、総社、沼田、舘林、そして高崎の5つだけでした。(山崎一氏)
この内、明治まで残っていたのは高崎城のものただ一つだったということで、実に残念なことをしたものです。
しかも、歴史的にも意味のある「三層」の「櫓」であったとすれば、尚更です。
「高崎市総合保健センター」の一角にこそ、「高崎城本丸跡」として、「写真入りモニュメント」を建てるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
それはそうと、鎌倉街道とはあまり関係ない話になってしまいました。
それもこれも、道が消えちゃってるからで・・・。(言い訳たらたら)
次回は、いったいどうなることやら。
あの頃は、この辺のことを「連隊」※と呼ぶ人がいましたが、今はもういなくなりましたねぇ。
※ | 陸軍歩兵第15連隊の敷地という意味。 |
←「もてなし広場のいわれ」というプレートが埋め込まれたモニュメントが建っています。
写真には、昔の市庁舎が写っています。
左側の建物は中央消防署、高い塔は火の見の望楼です。
子ども達が、いきなり「見学させてくださーい。」と言ってきても、消防署のおじさんは嫌がらずに望楼に登らせてくれました。
おおらかな時代でした。
一本のヒマラヤ杉の根元には、「ヒマラヤスギの由来」という石板が埋め込まれています。
先ほどの「もてなし広場のいわれ」にしても、この「ヒマラヤスギの由来」にしても、これを残したかった人の思いが何となく分かるんです。
その思いを、高崎の町全体に広げられないものでしょうか。
今は消えてしまった昔の町並みを、同じように写真入りモニュメントとして、町のあちこちに建てるのです。
年配の人は「懐かしー!」と言い、若い人は「そーなーん!」と言い、観光客は・・・さて、何と言うかな?
「もてなし広場」の一隅に、松と石碑が建っています。
「聖蹟記念碑」と刻まれた石碑には、昭和九年(1934)の陸軍特別大演習に天皇陛下が御臨幸になり、それを記念して松の樹を植え、「振武之松」と名付けたと記されています。
昭和三十二年(1957)のこの辺りの風景を、伊藤富太郎氏が写真で残して下さっています。
右側に「振武之松」と石碑が写ってますので、位置関係が分かるでしょうか。
道の向こうの建屋群は、「専売公社」(現・日本たばこ産業)です。
専売公社が移転した跡地には、昭和六十二年(1987)に「市立高松中学校」が建設され、平成二十三年(2011)には「高崎市総合保健センター」と「市立中央図書館」が建設されました。
ここが高崎城の本丸跡だというので、建設工事に先立って発掘調査が行われ、平成二十一年(2009)にも本丸堀の発掘調査が行われました。
貴重な高崎城の遺構が発掘されたのですが、再び埋め戻されてしまいました。
そこに建てられた「高崎市総合保健センター」の前に、植え込みがあります。
ちょっと見、どこでも見かけるような築山のように見えますが、近くへ行くとこんな風になっています。 ↓
実はこれ、高崎城の遺構の一部なんです。
説明看板もとても詳しく書かれていて、興味をそそられます。
ただ、惜しいかな、場所があまりにも奥過ぎます。
車の利用者はもちろん、歩道を歩く人すらこれに気付かないんじゃないでしょうか。
せめて、歩道から見える場所に案内看板を立てるべきだと思いますが。
もっと言えば、このすぐ近くに、高崎城の「天守閣」にあたる「三層櫓」が、明治初期まで建っていたということも標記すべきでしょう。
ちょうど、この2つの建物の間の道、国道17号とぶつかるちょっと手前辺りだったようです。
高崎城が「天守閣」でなく、三層の「櫓」としたのは、幕府が天守を築くのを禁じた後の構築であったためだそうです。
さらに、「櫓」と称して天守に等しい高層櫓の建設を禁ずるため、定めには「三階より高き櫓はなきことなり。」とあるので、高崎城は「三層櫓」となったようですが、実質は「天守」だった訳です。
群馬県下で天守のあった城は、前橋、総社、沼田、舘林、そして高崎の5つだけでした。(山崎一氏)
この内、明治まで残っていたのは高崎城のものただ一つだったということで、実に残念なことをしたものです。
しかも、歴史的にも意味のある「三層」の「櫓」であったとすれば、尚更です。
「高崎市総合保健センター」の一角にこそ、「高崎城本丸跡」として、「写真入りモニュメント」を建てるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
それはそうと、鎌倉街道とはあまり関係ない話になってしまいました。
それもこれも、道が消えちゃってるからで・・・。(言い訳たらたら)
次回は、いったいどうなることやら。
【「もてなし広場のいわれ」モニュメント】
【振武之松】
【高崎城 石垣水路と石樋】
【高崎城 三層櫓があった場所(推定)】