「豊岡誌」の中に、こんな記述があります。
前回記事の「旋頭歌碑」の辺りに、その「蛇塚」があるように思うんですが、ご近所の方にお尋ねしても、「ん?蛇塚?知らねぇなぁ。」というお答えです。
「豊岡誌」には、「近所に住んでいる浦野木六の好意で何時もきれいに清掃されている。」という記述もあったので、木六さんのお宅を訪ねてみました。
既に木六さんは他界されておりましたが、奥様がご健在でお話を聞くことができました。
奥様も「蛇塚」という名前はご存知ありませんでしたが、行き倒れの旅人を埋(い)けたという話は聞いているということで、教えて頂いたのが、なんと、前回記事の「風外別峯禅定門位」と刻まれた墓石があるところでした。
暑い中、わざわざ塚の所まで出て来て頂き、こんな話をして下さいました。
「この塚の際を川が流れててねぇ、この墓石なんかその川へ落っこちそんなってたんさ。」
塚の後ろに左にカーブした道に見えるのが、その川だそうです。
「あ、もしかして、板鼻堰ですか?」
「そうだいね、板鼻堰の水さ。昔は蓋なんかしてなかったからねぇ。」
藤花の人たちは、行き倒れの旅人をこの塚に葬る時に、碓氷川原の石を拾って墓石代わりにしたということです。
きっと、墓石はもっと沢山あったのでしょうが、そのほとんどは板鼻堰に転げ落ちたか、あるいは板鼻堰を暗渠にする時にただの石ころとして始末され、かろうじて、戒名が刻まれている墓石だけが残ったのでしょう。
場所が特定できた「蛇塚」に手を合わせ、「旋頭歌碑」の前を通って先に進むことに致します。
もう、秋の準備が始まっているようです。
栗の木は、実がつき過ぎると自ら余分な実を落とすんだと聞いたことがあります。
人間には、なかなかできないことです。
さてこの後は、さしたる興味あるものも無く、ひたすら歩いて県道139号に出ます。
その間、板鼻堰の水路になるべく近いルートをとりましたが、言葉で説明するのは難しいので、浦野邸からのコースを地図上に記しました。
「 | 旧八幡村と旧豊岡村の境界道が鎌倉街道と交わる地点に、蛇塚といわれている小さな塚がある。 |
この塚は、古来より鎌倉街道と中山道の街道筋で行き倒れた旅人を藤花の男衆が葬った無縁墓地である。(略) | |
蛇塚や 毒だみの花 咲き上がる | |
藤花地区に生まれ育った俳人、浦野芳雄の俳句である。」 |
前回記事の「旋頭歌碑」の辺りに、その「蛇塚」があるように思うんですが、ご近所の方にお尋ねしても、「ん?蛇塚?知らねぇなぁ。」というお答えです。
「豊岡誌」には、「近所に住んでいる浦野木六の好意で何時もきれいに清掃されている。」という記述もあったので、木六さんのお宅を訪ねてみました。
既に木六さんは他界されておりましたが、奥様がご健在でお話を聞くことができました。
奥様も「蛇塚」という名前はご存知ありませんでしたが、行き倒れの旅人を埋(い)けたという話は聞いているということで、教えて頂いたのが、なんと、前回記事の「風外別峯禅定門位」と刻まれた墓石があるところでした。

「この塚の際を川が流れててねぇ、この墓石なんかその川へ落っこちそんなってたんさ。」
塚の後ろに左にカーブした道に見えるのが、その川だそうです。
「あ、もしかして、板鼻堰ですか?」
「そうだいね、板鼻堰の水さ。昔は蓋なんかしてなかったからねぇ。」
藤花の人たちは、行き倒れの旅人をこの塚に葬る時に、碓氷川原の石を拾って墓石代わりにしたということです。
きっと、墓石はもっと沢山あったのでしょうが、そのほとんどは板鼻堰に転げ落ちたか、あるいは板鼻堰を暗渠にする時にただの石ころとして始末され、かろうじて、戒名が刻まれている墓石だけが残ったのでしょう。

もう、秋の準備が始まっているようです。
栗の木は、実がつき過ぎると自ら余分な実を落とすんだと聞いたことがあります。
人間には、なかなかできないことです。

その間、板鼻堰の水路になるべく近いルートをとりましたが、言葉で説明するのは難しいので、浦野邸からのコースを地図上に記しました。