
母屋は大正十二年(1923)完成の、もとは養蚕に使われていた建物だそうです。

を見つけました。
下豊岡の左官業・鈴木治郎氏の手による、漆喰の鏝絵だそうですが、このさりげなさがいいですねー。
迷道院は、こんなのが大好きです。
さて、アポを取って、非公開となっている浦野邸二階にあるフォトギャラリー「遊々舎」にお邪魔いたしました。
階段の上り口から、お洒落な小物が飾られています。
二階の蚕室を改造したギャラリーには、生前、写真撮影を趣味にしておられた浦野悦郎氏の遺影が、訪れた人を笑顔で迎えています。
このギャラリーは、悦郎氏の作品の展示を目的として、悦郎氏の一周忌にあわせて平成七年(1995)にオープンしました。


蚕室の屋根裏の木組みをそのまま見せながら、その下はギャラリーに相応しいお洒落な仕上がりになっています。
ギャラリーは、コンサートや絵画展、講演会の会場としても使われており、平成十六年(2004)までに42回のイベントが行われてきましたが、さすがに大変になってきて今は・・・、と仰っていました。
ところで、この浦野家は由緒ある家柄で、出自は信州小県郡浦野城主・浦野美濃守友久が祖先とされています。
この友久の妻女が武田信玄の妹と言われており、友久は武田家と近しい関係であったために、川中島合戦などでも信玄と共に戦い、大活躍したようです。
難攻不落と言われた箕輪城攻めにも、当初から加わっています。
信玄は、箕輪城攻撃の都度、下小塙の烏子(すないご)稲荷神社に詣でて必勝を祈願しています。
「この度こそは必勝を願う。我が武運を護り給え。箕輪城の落城叶わば、烏子稲荷の本殿と神楽殿の造営をなし、以後年毎に武運の祈願を怠らず。」
その箕輪城が9度に亘る信玄の攻撃を受け、永禄九年(1566)ついに落城すると、約束通り本殿と神楽殿を新築します。

以来、豊岡に土着した浦野一統は、烏子稲荷神社の初午祭りには欠かさず信玄の代参を行っていると、神社由緒に書かれています。
甲州、信州、箕輪、豊岡、下小塙・・・、点が線でつながった瞬間でした。
【浦野邸(遊々舎)】