2009年05月27日

みんなまとめて安楽寺

倉賀野町安楽寺には、「穴薬師」「倉賀野八景」の他、見るものが沢山あります。

今日は、それらをまとめてご紹介することにしましょう。

「賓頭盧(おびんづる)様」
本堂の軒下に祀られています。
病のあるところを撫でると、治してくれるそうです。
膝が一番光っていました。

「二十二夜堂」
本堂の左側に建っています。
説明は「由来看板」をご覧ください。

「将軍地蔵堂」
二十二夜堂の左に建っています。
説明は「由来看板」をご覧ください。

「異形板碑」
将軍地蔵堂の左にあります。
説明は「由来看板」をご覧ください。

以上の遺跡は比較的有名なものなので、ガイドブックなどにもよく登場します。
しかし、知られざる興味深きものが安楽寺には残されています。
そのひとつが、「えな捨て場」です。

「えな」とは「胞衣」と書き、産後の「胎盤」のことです。
昔は、お産婆さんが油紙にくるんで、その家の人が寺の墓地に持って行って捨てていたといいます。
安楽寺古墳の西側斜面、お地蔵様の左に、今でもその穴が残っています。

その後ろに、昭和四十年(1965)建立の「胞衣之碑」があります。
この年は巳年で、第百二回目の「穴薬師」ご開帳を記念して建てられたようです。

もうひとつ珍しいのが、「鼠(ねずみ)供養塔」です。

古墳の北側、ちょっと高くなった所に不動明王の石像と並んで建っています。
写真ではちょっとわかりにくいですが、「鼠」の文字が刻まれています。

一説には、倉賀野脇本陣の主須賀庄兵衛が、自宅の蔵の鼠を供養するために建てたと言われています。
また、安楽寺の奥様のお話によると、倉賀野河岸の米蔵を解体する時に、沢山の鼠を殺したので、その供養のために蔵主が建てたのだそうです。

実は、この話には後日談があります。
その解体した米蔵の部材を使って、安楽寺の庫裡を建てたというのです。
安楽寺は、お寺さんには珍しく信徒はいるものの、檀家というのを持たない祈祷寺です。
今でこそ、信徒さんの勧めで裏にわずかな墓地を持っていますが、昔は貧乏寺だったのだと奥様は仰います。
それを知っていた大工さんが、解体した米蔵の部材を使って、寺の庫裡を建て直してくれたのだそうです。

そのように、安楽寺倉賀野の住民が、何かにつけて寺のために寄付を募るなどして維持してきたお寺です。
しかし、信心深い人が少なくなった現代では、なかなかそれが難しくなっているのが現状のようです。


お近くに行かれた時には、ぜひとも安楽寺をお訪ねください。
数々の遺跡を楽しんで、いろいろお願いごともいたしましょう。
そして、ご喜捨をいたしましょう。


【安楽寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年05月30日

消えた一里塚

「安楽寺」から旧中山道を高崎市街方面へ進むと、「あれ?」と思うほど長く続く松並木が目に入ってきます。

いつも歴史遺産の破壊を嘆いてばかりですが、この旧中山道松並木の復元は「よく、やってくれた!」と嬉しい気持で一杯になります。


倉賀野近辺の中山道松並木は、比較的最近までその姿を留めていたようです。

右の写真は、高崎で生まれ育った写真家・伊藤富太郎氏が残してくれた、大正9年(1920)当時の松並木の姿です。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

「高崎の散歩道 第二集」に、「高崎市史」よりとして、安政三年(1856)当時の倉賀野宿から高崎宿間の並木の本数が記されています。
   松杉   二千七百本
   新植付 八百三十五本

もともとは、松と杉の並木だったようですね。

昭和七年(1932)に道路が改修され、分離二車線になっています。南側の並木は中央分離帯となりました。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

同報告書によると、夜間、自動車が度々分離帯の柱に衝突し、消防自動車まで衝突するに及んで、ついに昭和二十五年(1950)頃、分離帯を取り除いたということです。
この時から、並木は片側のみになったのですね。

片側だけになってしまった並木に、今度は自動車の排気ガスが襲いかかります。
昭和三十六年(1961)には並木の多くが枯れ、倉賀野宿から和田多中間には、杉49本、松8本だけになってしまいます。
そして、枯れ残った並木も昭和三十八年(1963)にすべて伐採されてしまいました。

さて、その後、現在の松並木が一体いつ、どのような経緯で復元されたのでしょうか?
その話は、次回に回すとしましょう。

ところで、倉賀野宿には一里塚もあったようです。
場所は、「安楽寺」の少し高崎寄りで、街道の両側にあったということですが、今は跡形もなく消えてしまいました。

その一里塚は、江戸日本橋から二十六里(102km)目だったそうです。
因みに、二十七里目の一里塚高崎宿九蔵町にあったということです。
現在残っている豊岡一里塚は二十八里目ということになります。

右の写真は、現在の豊岡一里塚ですが、こんなのが倉賀野に残っていたら凄かったですね。

復元された松並木が大きく育ってきたことでもあり、せめて「一里塚跡」という碑だけでも、建てられないものでしょうか。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」、高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」)

  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2009年05月31日

嬉しい話

上毛新聞の「ひろば」欄に、嬉しい投稿を見つけました。

「三十数年ぶりに日の目を見る」とあります。
長い年月、山車蔵に仕舞い込んだままだったのですぐには動かせず、今回は蔵の中で見たり触ったりするだけに留めるようです。

住民の方々は廃品回収をして、山車の修復費の一部を調達しようとしているそうで、協力者が現れることを願っていると、投稿者は仰っています。


左の写真が、投稿にある倉賀野町南地区山車のかつての雄姿です。
少なくとも、三十数年前の姿ということでしょうか。

平成17年に「倉賀野まちづくりネットワーク」が発行した、「倉賀野めぐり 第三号」のパンフレットから複写させて頂きました。
このパンフレットは、ちょうど昨日、取材のために訪れた倉賀野交番で頂戴したものです。

パンフレットには、他の地区の山車の写真も掲載してありましたので、ご覧ください。




それぞれの山車は、曳きまわす時期が異なるため、すべての山車が勢ぞろいすることはないようですが、それが実現できたら素晴らしいことですね。

ところで、倉賀野の歴史に触れ始めてから、この町の独特な力を感じています。

それは、安易にお上に頼ることなく、住民自らが、財力のある人はあるなりに、無い人は無いなりに、協力し合ってこの町を作り上げてきたということを、そこかしこに感じるのです。

そして、今でも倉賀野という町に誇りを持っているということも、お話を聞かせて頂いた方々すべてに感じるのです。

倉賀野下町にある「諏訪神社」の境内に、下町山車庫があります。

その山車庫の左には、写真のような大きな石碑が立っています。

石碑は、莫大な私財を投じて諏訪神社の境内整備、山車の修復、山車庫の新築をした和田夫妻のことを讃えたものです。
昔々の話ではありません。平成三年建立の石碑です。

石碑を建立した人たちの呼び名にも、地域の力を感じます。
「大勧進」「総代」「肝煎り」「組頭」「世話人」「長寿連」「若妻連」「子供連」「若衆連」「長寿会」
宿場時代から培われてきた自主自立の精神が、現代まで脈々と受け継がれていることを感じるではありませんか。

政治・経済に閉塞感を感じざるを得ない現代ですが、こんな時こそ民の力地域の力が必要なのかもしれませんね。  


Posted by 迷道院高崎at 07:49
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2009年06月03日

並木たずねて・・・

倉賀野~高崎間の旧中山道に復元された松並木

次々と歴史遺産が消えていく中にあって、一体いつ、どのような経緯で復元されたのか、気になって仕方がありませんでした。

どこかに、経緯を記した記念碑か看板がないかと思い、松並木に沿ってずーっと歩いてみましたが、それらしいものは見当たりません。

ネットで検索しても、それらしいものは引っかかってきません。
ならば、と市役所へ電話してみました。
観光課の方が、忙しい中、親切に調べて下さいましたが、資料を見つけることはできなかったようです。
ただ、「住民の有志の方が、やられたようですよ。」という情報を頂きました。

そこで、街道沿いに古くからありそうな、お店を訪ねてみました。
最初の時計屋さんでは、
「15年前ぐらいじゃねぇかな?」というお話でした。
次のお蕎麦屋さんは、
「私は知らないけど、近くの造園屋さんが、この辺一手にやってるから、きっとわかるよ。」と教えてくれました。

その造園屋さんでは、
「並木の手入れはやってるけど、並木はうちが来た時にはもうあったよ。」ということでした。
ちょっぴり諦めかけた時、
「ガソリンスタンドの前のおじいちゃんが、昔のことよく知ってるよ。行ってみ。」と教えてくれました。
これが、大ヒットでした!

行ってみると、ちょうど、そのおじいちゃん(失礼!)が庭から家に入るところでした。
大急ぎで駆け寄って、「すみませーん!」と声をかけたもんだから、ビックリされたようで、申し訳ないことをしちゃいました。

「松並木が、いつ頃復元されたかご存知ですか?」と聞くと、
「うーん、あれは・・・」としばし考えておられましたが、
「ちょっと待ってて。」と家の中に入って行きました。
しばらくして、縁側から手招きをするので行ってみると、何やら冊子を数冊持っています。

なんと!ご自身でワープロを駆使して、正六地区の歴史資料を作っているのだそうです。
その資料の中から出して見せてくれたのが、右の新聞切り抜きです。

「おーっ!これですねー!!」

ちょうど日付のところが切り取られていたのですが、記事の中に「ことし三月、倉賀野バイパスが開通し・・・」とあるので、昭和五十八年(1983)とわかりました。

松並木復元のきっかけになったのも、倉賀野バイパスの開通でした。
「町内を通過していた長距離便などの車が減ったのがきっかけ。
 町に静かなたたずまいが戻り、植物や昆虫に悪影響を及ぼす排気ガスも減少し、並木復元の機運が盛り上がった。」
とあります。

復元の中心になったのは、「倉賀野公民館の染谷次雄館長、正六地区の町田新次郎区長、上町地区の武井正幸区長ら」で、「地元区長十一人と地元の社会教育団体の連名で、県に請願書を提出」したということです。

もっと知りたくなって、倉賀野交番で元倉賀野公民館長・染谷次雄氏のことを調べて頂いたら、既にお亡くなりになっていました。
交番の女性の方がすごく親切な方で、松並木のことを知っていそうな人に連絡をつけてくださいました。
先方から連絡を頂けるということで、楽しみに待っているところです。  


Posted by 迷道院高崎at 20:31
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2009年06月06日

粕沢の立場茶屋

大正中期から昭和初期にかけて、倉賀野から高崎方面へ進むと、写真のような風景が見られたようです。
(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

ここは倉賀野町正六(しょうろく)です。

「正六」とは面白い地名ですが、一説には、新田義貞の血を引いているという女性が、この地の浅間山(せんげんやま)に住んでいて、その女性が「正六位」という位階を持っていたことから、この村を「正六」と呼ぶようになったということです。

写真の場所は、大正半ば以降の上正六粕沢という所で、写っている家は「諸国商人宿」だそうです。

実は、この家について貴重な情報を得ることができました。
前回の「並木たずねて・・・」でお世話になった須永志嘉夫さんがまとめられた、「上正六村 歴史年録」という小冊子に次のようなことが記されています。
明治の中頃、粕沢橋のたもとには、長野堰・五貫堀の流れに沿って篠笹の茂る土手があり、その土手下の窪みに冷たい澄んだ水が湧き出ていた。
その湧水を使って、酢饅頭をつくっていた『清水屋』というお店があった。
『清水屋』が昭和初期に店を閉めた後、村越という女性が住み着いて、出稼ぎの人たちを相手に始めた木賃宿が『諸国商人宿』だった。」

遡って江戸時代には、このあたりに「粕沢の立場茶屋」というのがあったといいます。(高崎の散歩道 第二集)
茶屋ができたのは、文化年間(1804~1817)、茶屋の主は、高崎宿本町に住む当代の文化人、花岡義旭(平八郎)という人だそうです。

当時の粕沢は滝もある水量の多い川で、その水を引いて池には蓮の花が咲き、鯉の泳ぐ風流な茶屋だったということです。
参勤交代の大名も、旅人も必ず立ち寄ったといいます。

「高崎の散歩道 第二集」には、「粕沢の立場茶屋」「はなおかゴルフ練習場」のところであったと書いてあります。
ゴルフ練習場の名前からすると、花岡義旭のご子孫の経営だったのでしょうか。
現在は、ドラッグストア「ウエルシア」になっています。


【粕沢の立場茶屋があったといわれる場所】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:12
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2009年07月22日

上正六の竜巻

7月19日(日)に岡山竜巻が発生し、2棟が全壊、71棟が一部損壊するなど、大きな被害が出たようです。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

このニュースに接し、思い出したことがあります。
旧中山道松並木の取材をしている時、上正六須永志嘉夫さんから、昭和六年(1931)にこの辺で大きな竜巻被害があったということを聞いていたのです。
いつかブログに書こうと思いながら、ずっと忘れてしまっていました。

上正六の歴史を几帳面に記録している須永さんでしたが、竜巻のあった時は小学6年生だったそうで、写真や新聞記事はお持ちでありませんでした。
そこで今日、県立前橋文書館へ行って当時の新聞記事のマイクロフィルムを探してきました。

竜巻があったのは、昭和六年六月十二日(金)の午前1時40分頃だったということです。
住家12戸が空中高く捲き上げられ、死者2名重軽傷者10数名とあります。
旧中山道の松並木も、この竜巻で大半が倒潰してしまったのですね。

当時、前橋測候所は次のような見解を示しています。
「この時の日本列島付近には、オホーツク方面の高気圧と、四国土佐灘沖の低気圧、および日本海方面の低気圧が分布していた。
高崎は、これら三つの高低気圧に挟まれる位置にあったため、気流が不安定となり、竜巻が起こったらしい。
(略)
今度のはそれほど大きなものでなく、天気図にも載らない程度であるにも拘らず、被害は全国でも稀有のものである。」


竜巻は、下佐野方面の烏川付近で発生し、正六公民館のところにあった薬師堂の屋根を吹き飛ばし、火の見櫓を倒し、旧中山道の松並木をなぎ倒して、浅間山古墳にぶつかって向きを変えたようです。
そして、上正六の家々を破壊して、和田多中下和田を通り、上信電鉄の車庫の屋根、石灰製造所の屋根などを壊して、やっと衰弱し、市の中央部方面に去ったといいます。(「高崎市史民俗調査報告書第七集」より)

高崎から遥か遠いオホーツクの気圧が影響したこの竜巻ですが、その年の9月18日、大陸では日本軍が関与したとされる南満州鉄道爆破事件が起こります。
そして、翌年5月15日の、いわゆる5.15事件により軍部の力が強くなり、ついに戦争という大竜巻が発生してしまいました。
岡山の竜巻が、そのような大竜巻発生の予兆でないことを、心から祈っています。
  


Posted by 迷道院高崎at 21:54
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2009年08月09日

荒神山の一本杉

先日、天明三年(1783)の浅間山大噴火による降灰を集めて塚にしたという、「浅間山(せんげんやま)」の話をご紹介しましたが、その姿を見ながら、以前、同じような風景を見たことを思い出しました。

「倉賀野緑地公園」へ行く時に見える、この風景です。
広い駐車場の中に、ポツンと取り残されたような小山。
「荒神山の一本杉」というのだそうです。

この塚には、悲しい物語が残されています。

とある旗本の嫡男に生まれた甲阪新之助という人が、許婚(いいなづけ)がありながら、向いの邸の門番の娘、お露と恋仲になってしまいます。
それを父に知られた二人は駆け落ちをしますが、江戸からの追手が迫る中、豪雨で増水した烏川を渡り始めます。
あくる朝、倉賀野河岸近くの河原に、互いに胴を結んだ男女の溺死体がありました。
しかも女性は身籠っていたといいます。
その姿を憐れに思った村人は、河岸近くの高台に比翼塚(愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚)を立て、その上に二本の杉を植えたのだそうです。

人々は、「荒神山の二本杉」と呼んで供養していましたが、いつしか訪れる人も減り、荒れるに任せた状態となりました。
明治に入り、この一帯が開墾されて田畑となりましたが、どういう訳か水田の水掛かりが悪い上に、よく人々が怪我をし、耕す者に必ず不幸が見舞うと言われるようになります。
そこで古老の言によって、供養塔を立てて懇(ねんご)ろに弔うようにした所、それ以来、悪いことは起きなくなったということです。

駐車場の中に、塚が取り残されている理由が分かりました。

時を経て「二本杉」は大きく育ちましたが、あるとき一本の木に雷が落ちて、真っ二つに割れてしまったそうです。
そして、その空洞になった所で乞食が火を燃したりしたため、ついに枯れて「一本杉」になってしまったとのことです。

その一本も、また枯れてしまったのでしょうか。
現在は、まだそれほど太くない杉の木が四本、塚の上に立っています。

「荒神山」のすぐそばに、小さな祠があり、石仏が祀られています。

「馬頭様」と呼ばれる、「馬頭観音」だそうです。

大正か昭和の初め頃、ここから烏川の河原に落ちて死んだ、盲目のがいました。
この馬を供養するため、近くの河川敷で桑畑を耕作していた人たちが、お金を出し合って建てたのだそうです。

当時の人達の、心優しさを物語る二つの遺跡。
由来を記した看板もないのは、いかにも勿体ないことです。
長く、後世に伝えていきたいものです。


(参考図書:「伝説の倉賀野」「倉賀野町の民俗」)


【荒神山】
  


Posted by 迷道院高崎at 17:04
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2009年08月12日

新堤と古堤

「荒神山の一本杉」の写真を撮りに行って、そういえば、この辺に「古堤(ふるづつみ)」というのがあったなぁ、と思い出しました。

「古堤」のことを知ったのは、安楽寺にある「倉賀野八景」の額がきっかけでした。
「新・倉賀野八景」の漢詩の中に、
「雨夜更遊新湖頭」(雨夜さらに遊ぶ 新湖[しんつつみ]の頭[ほとり])
というのがあって、「新湖(しんつつみ)」とは何だろうと思って、調べてみたのでした。

倉賀野駅の100mほど東、線路沿いにある用水池が「新堤(しんづつみ)」です。

ほとりに建つ石碑には「新(旧)溜池改修記念碑」と刻まれています。
新溜池が天明六年(1786)に作られた「新堤」旧溜池がそれより古い「古堤」ということで、ともに昭和十一年(1936)に改修工事がなされました。

倉賀野の下町にある、その「古堤」が、これです。→

一見、何の変哲もない用水池ですが、かつて、この地区にとっては重要な溜池でした。

この地域の農業用水は、長野堰の末流である五貫堀川の更に下流の末水(ばっすい)であるため、いつも水量が不足がちだったようです。
そこで、旱魃に備えてつくられたのが、この「古堤」なのです。

「古堤」に隣接する高崎市立倉賀野保育所の脇に、「古堤」の由来を刻んだ石碑が建てられています。

その碑文をご紹介しましょう。

「古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩(6,264㎡)にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代(1661~1672)全国的な大旱魃起こり、時の高崎藩主年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。

その後、管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。

時は移り世は変わり、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なることを認めて合い謀りて、ここにその半ばを埋め立て保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。
昭和五十二年四月吉日   倉賀野下組水利組合」


いやー、高崎藩は単なるバラマキ減税でなく、ちゃんと将来を見据えた施策をとっていたんですね。
さらに、昭和初期までこの溜池でを養殖し、信州の佐久まで列車輸送して、「佐久の鯉」として売っていた業者もいたといいます。
先人たち、なかなかしっかりしております。

【新堤】

【古堤】
  


Posted by 迷道院高崎at 06:22
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2009年08月14日

蛇が怖けりゃ、この神社

倉賀野下町「古堤」のすぐそばに、「諏訪神社」があります。

倉賀野城主・金井淡路守武田信玄の命により、信州諏訪神社を勧請したと言われています。

この神社には、なぜかにまつわる話が付きまとっています。

倉賀野神社に伝わる「飯玉縁起」に登場する飯玉八郎が、倉賀野神社の御手洗池に住んでいた大蛇を退治して、頭を倉賀野神社に、尾をここ諏訪神社に祀ったという話が伝わっています。

また、昔、諏訪神社の近くに「穴池」という大きな池があって、そこに大蛇が住みついていたという話もあります。
その大蛇を、下町の人達が退治したのですが、祟りを恐れて諏訪神社に祀ったのだそうです。

そこで以前は、諏訪神社の拝殿に飾る注連縄(しめなわ)は、大蛇をかたどってあったといいます。
その名残りでしょうか、拝殿の注連縄は白い布が巻いてある珍しいものです。

さらに、境内の奥には「池鯉鮒神社」というのが祀られています。
「ちりう・じんじゃ」と読むそうで、愛知県知立(ちりゅう)市から勧請された「蝮(まむし)除け」の神様だそうです。
「ちりう」「茅生」とも書き、茅(かや)の沢山生えている所という意味もあるので、そんな場所に生息しているに噛まれないための信仰なのでしょう。

もともとは、「荒神山」のちょっと東、字大道南に祀られていた小祠で、明治末期の神社整理で諏訪神社境内に移されたものです。

諏訪神社の境内には、驚くほど立派な土俵が設(しつら)えてあります。

毎年8月26日が祭礼日で、その日にこの土俵で「子ども相撲」が催されるのだそうです。
また、以前は山車も出たようですが、今は8月16日「閻魔堂」の祭りにだけ山車を繰り出すようです。

諏訪神社境内の整備には、下町町民の力が大きく関わっています。
そのことについては、5月31日の記事、「嬉しい話」をご覧ください。

(参考図書:「高崎市史民俗調査報告 第七集」「続・徐徐漂たかさき」)


【諏訪神社】

【閻魔堂】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:59
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2012年10月06日

脇本陣 壁の下張り

「上州中山道全七宿めぐり」倉賀野宿を通る時、脇本陣の建物を覆う養生シートにびっくりしたことをブログに書いたところ、日頃お世話になっているN先生からメールを頂戴しました。

「(脇本陣の)漆喰壁に和紙と新聞紙の下張りがしてあるので、明日剥ぎ取りを行う予定。時間がありましたら覗いてみてください。手伝い可。すごい埃覚悟で。」

こりゃ滅多にできない貴重な経験です。

ということで、ヘルメット、防塵マスク、防塵メガネ持参でお邪魔することに致しました。

初めて入った脇本陣の内側。

相当解体が進んでいて、一階部分は骨組みだけになっていました。



作業は二階部分で進行中でした。
塵埃濛々たる作業場を想像してましたが、その日が雨だったせいか、埃はほとんど舞ってませんでした。

壁には、大正元年発行の「萬朝報」と、その下に、筆文字の書かれた和紙が見られます。

「脇本陣」ということで、江戸時代の建築のように思われていますが、実はこの建物、明治時代に建て直されています。

ただ、その時期は明治二十年(1887)代とも、明治三十六年(1903)とも言われ、定かではありません。
今回、大正元年の新聞紙が壁の下張りに使われていたということで、もしかすると、新しい説が生まれるかもしれません。

作業は、霧吹きで水を含ませながら、丁寧に、丁寧に、剥いでいきます。

水気が足らなければ剥がれないし、多すぎれば破けてしまうしということで、なかなか大変な作業です。





剥ぎ取った一枚には、通い帳の表紙でしょうか「明治廿三年(1890) 油之通」と書かれています。

大正元年の新聞紙の下に、明治二十三年の通い帳が貼られていたことになります。
まだこの後、日付の書かれた紙が出てくるでしょうから、いずれ建物の再建時期もはっきりしてくるでしょう。

せっかくの機会なので、私も剥ぎ取り作業を少しだけやらせて頂いたのですが、なかなか根気のいる作業でした。
短気な私がやると、まるでジグソーパズルのようにコマ切れになってしまいます。
貴重な資料を台無しにしてもいけないので(ほんとは、根気が切れたのですが)、お昼になったのを口実に引き上げさせて頂きました。

ともあれ、この貴重な経験をさせて下さったN先生、邪魔者扱いせずに受け入れて頂いた関係者の皆さま、大変ありがとうございました。
学術的な研究というのが、如何に地道で大変なものかということが、よく分かりました。
これからは今まで以上に、感謝して、諸先生方の研究結果を使わせて頂きます。


【倉賀野宿脇本陣跡(須賀喜太郎家)】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:16
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2016年12月25日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(1)

今日は「史跡看板散歩」をちょっとお休みして、「幸運を呼ぶ道標」のお話をいたしましょう。

先日、ブログにこんなコメントを頂きました。


コメントを頂いた時点では伏字にいたしましたが、新町(しんまち)にお住いの大野一美さんに早速お電話を差し上げました。
すると、高崎学博士福島長治さんから「左道通行の石柱のことをブログ記事にしている人(迷道院)がいる」と聞き、ぜひ会いたいのだというお話でした。

もう7年も前に書いた「消えた一里塚」という記事のことで、「左道通行」という石柱が写っている写真というのがこれです。


もう少し大きく写っているのがこちらです。

記事の中でも書いたのですが、この道標は昭和二十五年(1950)頃撤去されたということまでは、「高崎市史民俗調査報告書第七集 倉賀野町の民俗」に記載されています。
しかし、撤去された後どうなったのかは、おそらく報告書をまとめた方にも分からなかったのでしょう。

それが、新町(しんまち)の某所に残っているという話なんですから、驚きです。
すぐに大野さんをお訪ねし、保管場所に案内して頂きました。
それは、ある施設の一角にブルーシートで覆われていました。


その日は休日で中に入ることができなかったので、後日改めて施設の了解を得て写真を撮らせて頂きました。


倉賀野松並木の中央分離帯に設置されていた時、自動車が何台もぶつかったと言われていますが、たしかに道標は満身創痍という感じに古傷が刻まれています。

それにしても、昭和二十五年頃撤去された倉賀野松並木の道標が、なぜ今ここに残っていたのでしょう。
それは、奇跡とも幸運ともいえる物語があったのです。
次回、詳しくお話いたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
Comments(4)倉賀野◆高崎探訪

2017年01月01日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(2)

明けまして おめでとうございます。
今年も「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

さて、新町(しんまち)に残っていた道標、「左道通行」の続きです。
その情報を発信して下さった大野一美さんは、新町(しんまち)にある専福寺の総代をなさっています。
今年のある日、総代の方々が専福寺に集まって会合をしていた時、神流川橋たもとにある解体中のメッキ工場・メテック関東跡地の話題になりました。

その時、むかし建設省に勤めていたことのある方から、こんな話が出たそうです。
「そういえば、メッキ工場の角に建ってる石柱は、たぶん、むかし倉賀野の中山道に建ってたやつだと思うよ。」

もともと歴史に大変興味のある大野さんは、すぐに現地へ行き、このままでは取り壊されてしまうに違いないと思いました。
そこで、次のような文書を作成して、倉賀野町近在に住む歴史家に送ったのです。


しかし何らの動きもないまま三ヶ月が過ぎ、再び大野さんが現地へ行った時には、すでに更地となった工場跡に石柱はありませんでした。

現地に案内して下さった大野さんは、「この角に建ってたんですよ。」と教えてくれました。


撤去されたのは最近なので、もしやと思ってGoogleのストリートビューを見たら、写ってました!


幸運だったのは、工場解体にあたった業者が、この石柱は何か謂れのあるものではないかと思って、その処分方法を新町支所に問い合わせてくれたことでした。
それを受けた支所の担当職員が、これはやたらに廃却すべきものではないと思ってくれたのもまた幸運なことでした。

思えばこの道標、設置以来、実に幸運続きの人生(?)であったのです。

←大正九年(1920)の中山道上正六付近。
道の両側には杉と松の並木がありました。




昭和七年(1932)南側に新しい道路が作られて、南側の並木はそのまま中央分離帯となり、その高崎側と倉賀野側の二ヶ所に「左道通行」の道標が建てられました。

当時はまだ自動車の数も少なく夜間の照明もありませんでしたから、暗い道の真ん中に立っている道標には、よく自動車がぶつかったそうです。
高崎側に建っていた道標は修復不可能なほど破損して撤去され、倉賀野側だけが幸運にも残りました。

「倉賀野町の民俗」によると、
昭和二十四、五年(1949、1950)頃に、夜半出動した消防自動車が標識にぶつかり、死者、けが人が出る事故があった。
この頃には交通量も多くなっていて、この時以降、並木と標識は取り除かれ、広い一つの道になったといわれる。」
とありますが、大野さんは「昭和三十二年(1957)~三十三年頃まで建っていたと聞く。」と仰り、上正六にお住いの須永志嘉夫さんは「昭和三十七年(1962)頃撤去された。」と仰っています。

いずれにしても、その時この道路を管轄していたのが高崎ではなく新町(しんまち)の建設省であったことから、撤去された道標は建設省新町工事事務所に引き上げられたという訳です。
もしかすると、これも幸運だったのかも知れません。

引き上げられた道標は、いつの時点かは不明ながら、建設省から松浦メッキ工場そしてメテック関東となる敷地の東南角に建てられます。
その理由も不明ですが、もしかするとコーナーの目印としてか、あるいは建物のガード石として用いられたのか。
理由はともあれ、それによって現在まで残ったことは、幸運というほかありません。

今回の工場解体にあたっても、たまたまそれが専福寺総代会で話題になったこと、総代の中に道標のことを知っている人がいたこと、それを聞いたのが歴史好きな大野さんであったこと、解体業者が支所に問い合わせたことなど、いずれも奇跡のように幸運がつながってのことです。

こう見てくると、この道標自身が、その幸運を呼び寄せていたのではないかとさえ思えてきます。
あるいは、「元あった場所に戻りたい!」と一所懸命訴えていたのかも知れません。


迷道院としては、上正六の元あった場所の近くに戻し、この道標にぶつかり命を落とした方の供養塔として、またこの道標自身の幸運にあやかって、「幸運を呼ぶ道標」として高崎の一名所にしたらと思うのですが、皆様はいかがお思いでしょうか。

2017.1.6 追記
知人でブロ友の”いちじん”さんからコメントを頂戴し、ご尊父とその友人が「左道通行」の道標のところで撮影したという写真を送って頂きました。
見ると、道標には傷一つなく文字も黒々としていて、建ててまだ間がない頃の写真と思われます。
ご尊父(前列左)の卒業アルバム(昭和十三年)に載っていた写真だそうです。
ご提供、ありがとうございました。



【「左道通行」道標が元あった場所】



  


Posted by 迷道院高崎at 01:37
Comments(10)倉賀野◆高崎探訪

2017年06月04日

史跡看板散歩-47 小鶴巻古墳

「下正六観音」の南東100mほどの所に、「小鶴巻古墳」があります。


地上からの写真ではよく分かりませんが、上空から見ると、いわゆる「前方後円墳」だというのがよく分かります。



「小鶴巻古墳」があるということは、「大鶴巻古墳」もある訳で。



さらには、もっと大きな「浅間山(せんげんやま)古墳」も近くにあります。



昔はもっともっとたくさんの古墳があったようで、昭和十三年(1938)発行「上毛古墳綜覽」の古墳分布図を見ると、その集中具合がよく分かります。


しかし、その多くが消滅してしまっていて、赤い色でマークされているのが消えた古墳です。

(平成四年度~十年度 高崎市史編纂委員会原始古代部会調査)

古墳時代、この地の人々は、いったいどのような暮らしをしていたのでしょう。
タイムマシーンがあったなら、見てみたいものです。


【小鶴巻古墳】



  


2017年06月11日

史跡看板散歩-48 倉賀野電修場跡

「大鶴巻古墳」の南東250mの所にある、「倉賀野電修場(でんしゅうば)跡」の史跡看板です。


「電修場」という聞き慣れない名称を、この看板で初めて知ることができました。


知ることはできたのですが、今度はどんな建物が建っていたのかを知りたくなりました。
ところが、これが分かりません。

ネットで探しても見つかりません。
図書館で鉄道関係の本に写真が載っていないか探してみましたが、ありません。
それならとJR高崎支社へも行ってみましたが、そもそも「電修場」という言葉を知っている方すらいませんでした。
最後に、史跡看板の原文を書かれた方にもお尋ねしましたが、やはり写真を探したけどなかったんだと仰ってました。

せめて地図上に「電修場」が描かれているものがないかと探してみると、昭和三十六年(1961)の住宅案内図にあるのを見つけました。


ここでふと思いついたのが国土地理院の航空写真で、もしかしたら写ってるんじゃないかと。
ありました、ありました。


現在と「倉賀野中学校」の位置が違いますが、「電修場」が廃止された後、その跡地に移転されたようです。
ということは、史跡看板の建っている場所はちょっと違うのかも知れませんが・・・。

みなさんの中に、「倉賀野電修場」の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報を。
よろしくお願い致します。


【倉賀野電修場跡史跡看板】



  


2017年06月18日

史跡看板散歩-49 安楽寺

倉賀野町「安楽寺」です。



「安楽寺」は、古墳の南半球部を崩して創られたお寺のようです。


「新編高崎市史 資料編1」によると、古墳は7世紀末頃のものだそうです。
古墳の石室内壁には、有名な「七仏薬師」が彫られていて、その様式は鎌倉時代末期のものと推定されています。


史跡看板には、「鼠供養塔」「倉賀野八景奉納額」「板碑」と、3つも書かれています。


この「安楽寺」には貴重なもの面白いものが沢山あるので、「3つしか書かれていない」という言い方のほうが正しいかも知れません。
このブログでも、8年前、4回に分けて書いているくらいです。

面倒かも知れませんが、ぼちぼちとご覧頂けたら嬉しいです。
   ◇穴薬師
   ◇大願成就
   ◇倉賀野八景
   ◇みんなまとめて安楽寺

ということで、今回はこの辺で。


【安楽寺】



  


2017年06月25日

史跡看板散歩-50 森良齋灰塚

倉賀野町「永泉寺」です。



永泉寺といえば、「古手ムジナ」とか「幽霊石」とか、有名な話が伝わっています。 → ◇どきっ!

今回の史跡看板「森良齋灰塚」は、墓地の中央辺りにあります。



さすが加賀藩の御典医ともなると、火葬にして故郷に連れ帰ったのですね。
土葬が普通だったその時代、ほとんどの旅人は、亡くなったその土地で葬って終わりだったようです。
加賀の飛脚を葬って祀ったという「梅乃木大神」というのも、倉賀野の外れにあります。

「森良齋灰塚」のもう少し奥には、倉賀野城主・金井淡路守の墓所があります。

    
「永泉寺」は、天正元年(1573)金井淡路守景秀の創建で、倉賀野城の北方を護る重要な砦でもありました。


かと思えば、ひっそりと飯盛女の墓もあったりします。


明治十八年(1885)の地図を見ると、「永泉寺」はほんとに宿のはずれだったことが分かります。


そりゃ、ムジナも静かに暮らしていたはずで・・・。


【永泉寺】



  


2017年07月02日

史跡看板散歩-51 田子屋の獅子

倉賀野「永泉寺」から中山道手前の比較的小規模な町内が、「田子屋」です。



「永泉寺」東の二股道を左へ行くと、建物の壁にへばり付くように、二十二夜塔馬頭観音碑が建っています。


ここが「田子屋公民館」で、今回の史跡看板「天下一角兵衛田子屋の獅子」があります。



倉賀野の各町内は屋台を持っていますが、「田子屋」は持っていません。
その代わり、倉賀野神社の祭礼で五台の屋台が巡行する時は、いつも「田子屋の獅子」がその先頭を進んだということです。


「天下一角兵衛」というのは獅子舞の流派のことで、現在高崎の獅子舞保存会に登録されている16組の内、「天下一角兵衛」を名乗っているのは田子屋上中居だけだそうです。

もっとも、上中居の獅子舞は天保三年(1832)に田子屋から指導されたものだと言われています。
これについては面白い話があって、指導する時に田子屋で舞っている通りではなく、舞と囃子の組順を変えて教えたということです。
なので、同じ演目で同じ囃子を演奏しても、田子屋上中居では違う舞いなのだそうです。


因みに、他の地域の獅子舞の曲数は25~26曲であるのに、田子屋では75曲もあるそうです。
「天下一角兵衛」流師範としての自負を感じます。

そんな「田子屋の獅子」も後継者不足のため、十数年途絶えた時期がありますが、平成十七年(2005)秋の倉賀野神社七百五十年祭を機に復活し、以降春秋例大祭に奉納されているそうです。

伝統芸能の継承が難しい時代、永く続いていってほしいと思います。


【天下一角兵衛田子屋の獅子史跡看板】



  


2017年07月09日

史跡看板散歩-52 高札場跡

倉賀野町「高札場跡」です。



昔からある説明板は、もうまっ黒で文字がほとんど読めません。


その説明は新しく設置した史跡看板で。


「定め書」も新しい高札に書き写されています。


「五倫」とは、孟子の教え。
父子有親。「父子の間には親愛が有り」
君臣有義。「君臣の間には礼儀が有り」
夫婦有別。「夫婦の間には区別が有り」
長幼有序。「長幼の間には順序が有り」
朋友有信。「朋友の間には信義が有る」
(小林勝人氏著「孟子」より)

「鰥(かん)」は妻のいない男、「寡(か)」は夫のいない女、「孤」はみなしご、「独」は子のいない老人、「廃疾」は不治の病や不自由な身体を持つ人のことだそうです。

「教育勅語」なんぞを復活させるより、この「お定め」を復活させた方がよっぽどいいかも知れません。

もうひとつ「お定め」が掲げられています。


「ばてれん」は神父、「いるまん」は神父になる前の修道士。
「立かへり者」は一度信仰を捨てたが再び信徒に戻った者。
さらに、「同宿」とは宣教師らと寝起きを共にして手助けをした人、「宗門」は信徒のことだそうです。

庶民は目前の金銭的誘惑に弱いということを、お上はよく知ってます。
自分は「一般人」だから関係ないと思っていても、他人の目に「自然(じねん)不審な者」と映れば、捕まっちゃいます。

「宗門」の仲間同志だって、油断はできません。
密告すれば最高金額の褒美を出すという、「司法取引」も用意されてますから。
村内の誰かが匿ったりすれば「組織的犯罪集団」、名主や隣組まで罰せられちゃいます。

まさに、「総監視社会」を創り出そうという狙いですね。
そういえばつい最近、似たような「お定め」が・・・。

高崎にも、「隠れキリシタン」はいたようです。
   ◇高崎の隠れキリシタン
   ◇隠れマリア

ところで、高札場のうしろに一本の樅の木があります。


この木、「伝説の樅の木」と呼ばれているものです。
安政二年(1855)の倉賀野大火の折、この木の梢に降り立った大天狗により類焼を免れたというのが、「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋年寄・須賀長太郎家でした。

その「須賀長」は今ありませんが、その東隣で「脇本陣」をつとめていた「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家は、昔の佇まいを残しています。


最近改修工事が行われてきれいになり、これを機に一般公開して頂けるのかと期待もしたのですが、やはり個人宅ということで非公開のままです。

ただ幸運なことに、改修中に内部を拝見させて頂く機会がありました。 → ◇脇本陣 壁の下張り
内部の写真はあまり載せてはいけないでしょうが、このくらいはいいかなと思うものを少し。



本陣は大名・公家しか泊まれませんが、脇本陣は一般の旅人も泊まれたそうで、太田蜀山人草津への旅の途中、「須賀喜」に一泊したと伝わっています。
ところが、その時の女中の客あしらいがあまり良くなかったらしく、こんな狂歌を残していったとか。

  須賀須賀と 銭は取れども 用足らず
           こんな宿屋に なんで喜太郎



【高札場跡】



  


2017年07月16日

史跡看板散歩-53 倉賀野宿本陣跡

「高札場跡」から200mほど東へ行った、「ベイシアマート倉賀野店」のところが「本陣跡」です。




看板の絵図を見ても、本陣・勅使河原(てしがわら)家の大きさを窺い知ることができます。


因みに「脇本陣」(須賀喜太郎家、須賀庄兵衛家)は、このように描かれています。


「本陣」は門・玄関・書院を設ける特権が与えられ、上段の間も設けられていたそうです。
一方「脇本陣」は門・玄関のみ設置が認められていましたが、倉賀野「脇本陣」では玄関は設けていなかったようです。

「須賀勝彌家文書」(新編高崎市史通史編3)に、天明五年(1785)時点の夫々の屋敷規模が記載されています。
本陣(勅使河原八左衛門家)
  敷地 間口14間奥行40間 560坪
  家屋 間口13間3尺奥行14間194坪
脇本陣(須賀喜太郎家)
  敷地 間口12間5尺4寸 奥行29間374坪
  家屋 間口 9間3尺奥行15間 94坪
脇本陣(須賀庄兵衛家)
  敷地 間口22間5尺奥行27間617坪4分
  家屋 間口13間奥行13間 72坪

倉賀野宿では初め「本陣」のみがおかれ、「脇本陣」は後になって設けられたようで、天保十三年(1842)の「松本家文書」(文献による倉賀野史第三巻)によると、こうなっています。
本陣(勅使河原八左衛門家)
  八代以前 元和年中ゟ本陣相勤申候
脇本陣(須賀喜太郎家)
  六代以前 延宝年中ゟ脇本陣幷旅籠屋仕来申候
脇本陣(須賀庄兵衛家)
  七代以前 延宝年中ゟ脇本陣仕来候
【元和(1615-1624) 延宝(1673-1681)】

勅使河原家は中世「倉賀野十六騎」の筆頭・勅使河原備後守の子孫ということで、土地の有力者として大きな屋敷を有していました。
そのため高崎藩から「本陣」という役を任されたのでしょうが、苗字帯刀を許されたものの藩からの手当は下付されず、その経営はなかなか大変だったようです。

「脇本陣」は公的な宿泊者がない時は旅籠屋として一般客を宿泊させることができますが、「本陣」はそれを禁止されていました。
ではどうやって賄っていたかというと、宿泊する大名からの下賜金品と宿場からの助成金に依っていたといいます。

幕末に近づくにつれて大名の財政も乏しくなり、物価は高くなり、しかし助成金は据え置きという中でのやりくりで、相当苦しかったろうと思われます。
そのためか、勅使河原家は明治初年に没落し、現在子孫の行方も知られていないそうです。(文献による倉賀野史第三巻)

勅使河原家の西隣に、江戸初期から問屋年寄を勤めていた須賀善右衛門家がありました。
須賀善右衛門家も幕末に近づいて次第に衰微していったとみえ、安政三年(1856)には板鼻宿の造り酒屋・十一屋六左衛門に土地を貸しています。


十一屋六左衛門は近江国野田村出身の野田六左衛門、宝暦三年(1753)に板鼻宿で酒造業を開き一財を成した人です。
板鼻「十一屋」については、グンブロ仲間の風子さんの記事をご覧ください。 → ◇板鼻・十一屋酒造の銘酒 “群鶴” ♪

その支店として目を付けた場所が、倉賀野宿須賀善右衛門家だった訳です。
野田六左衛門は、その借地で酒を造り始めます。
そして、明治十八年(1885)にはその土地を買取っています。


明治二十五年(1892)の「倉賀野支店」の略図です。


ところが、いつの頃か分からないのですが、いきなり酒から味噌・醬油の醸造に変更します。
なんでも、火事になった時に消防の連中が火を消さずに店の酒を飲んでいたのを見て、これはいけないということで味噌醬油をつくることにしたというのですが・・・。(倉賀野町の民俗)

地元では「野田六商店」と呼ばれて親しまれ、商売も順調だったようで、大正期に敷地を拡大し真っ白な大きな蔵を建てたそうです。
おそらくこの時に、本陣・勅使河原家の土地も買取って拡張したのでしょう。

しかし戦後になって、さしもの「野田六商店」も勢いを失って閉店されます。
建物は昭和五十五年(1980)頃に取り壊されますが、昭和四十九年(1974)の航空写真に往時の建物群が写っています。


その跡地には「スーパー丸幸」ができ、その「丸幸」も平成十八年(2006)に閉店、「ベイシアマート」に変わって現在に至る訳です。

残念ながら、「倉賀野宿本陣」の遺構も「十一屋・野田六商店」の遺構もまったく残りませんでしたが、歴史を知って現地を見ると、感慨深いものがあります。


【倉賀野宿本陣跡】



  


2017年07月23日

史跡看板散歩-54 九品寺

「倉賀野宿本陣跡」の道向こうに細道があり、その突き当たりが「九品寺」(くほんじ)です。




看板にはいろいろ書かれてますが、迷道院としては「九品」とは何かが知りたいところです。
Wiki.によると、「物質や人の性質を3×3で分類したもの」だそうで、「上品」とか「下品」という言葉はここからきているのだとか。
九つの区分の最も下が「下品下生」(げぼん・げしょう)で、「五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者」とあります。
ほ~、さぞかし地獄は大賑わいだろう・・・、行きたくないなぁ。

山門を潜った右手にケヤキの大木、幹のコブが生きてきた歳月の長さを感じさせます。


本堂の破風には、「葵の御紋」


「九品寺」は浄土宗総本山「知恩院」の末寺で、徳川家が浄土宗を信仰していたことから朱印地十五石を賜っていたとか。
(文献による倉賀野史第三巻)

史跡看板には、いろんな人の墓があると書いてありますが、迷道院は「飯盛女の墓」の他はあまり興味が湧きません。

倉賀野宿に何人の飯盛女がいたのかよく分からないのですが、天保十三年(1842)の「旅篭屋渡世書上帳」「飯売旅篭屋三十二軒」とあり、定めでは一軒二人までということになっているので、単純に掛け算をすれば64人ということになります。
(文献による倉賀野史第三巻)

しかし、実際には定めを越えた人数を置いていた旅籠が多かったようです。
そのため度々お上の手入れがあり、享和三年(1803)には22軒の旅籠が過料銭と手鎖を申し付けられ、定めを越えた数の飯盛女が53人もいたといいます。
(文献による倉賀野史第三巻)

この時捕えられた飯盛女たちは、宿役人に預けられた後、49人が倉賀野宿内や高崎城下、周辺の村々へ妻として縁づきます。
また国元(越後国蒲原郡)へ帰った者2人、剃髪して仏門に入った者もいたそうです。
(新編高崎市史通史編3)

越後国小嶋谷村の喜左衛門が倉賀野宿の旅籠屋・善兵衛に出した、「飯売下女年季奉公人請状之事」という証文が、「文献による倉賀野史第三巻」に載っています。
原文は候文ですが、現代語訳の方をご紹介します。
越後国三嶋郡小嶋谷村喜左衛門の娘ちい十六歳で、よんどころない金子入用のため、親類一同相談の上、倉賀野へ連れて来て、旅篭屋善兵衛方へ旅篭屋飯売下女として、年季奉公に出す。
文政七年(1824)八月から天保二年(1831)まで、六年六カ月間、給金は拾八両と極(き)め、給金残らず慥(たしか)に受取りました。
そうしたからには、諸親類や外の者より異議申立をする者は一人もありません。
もし、何か申す者が出たならば、我等何方(いずかた)までも出掛け、貴殿には御苦労をお掛け致しません。
万一、取り逃げ、欠落など致しましたら、早速尋ね出し、お渡し致します。
もし行方知れずの場合には、代わりの人なりとも、給金でも、思召次第に差出します。
年季中勝手なお暇など決して取らせません。
ことに、ご家内の風にあいませんときは、お知らせ次第出掛けて来て、他の宿へ渡しても良いし、我等遠方のために貴殿の手筋で、他の旅篭屋へ住替えさせ、お金を御取り下さい。
後日に加印請状を改めます。
もし、年季中に妻に欲しいとの人がありましたら本人得心の上、先様を見届けの上、貴殿(主人)の娘として、縁付かせてください。」

娘が死んだときのことも、証文に書かれています。
万一このもの煩死・病死・けが・あやまちにて、不慮の死の場合は、お知らせ次第お伺いして、立合い致すつもりですが、遠方のためできかねますから倉賀野宿の請け人(勘七)立合の上で、貴殿旦那寺に御取置、後日に法名をおつけください。」

しかし、ほとんどの飯盛女たちは墓も名も残さずに生涯を終えて逝ったのでしょう。
「新編高崎市史通史編3」によれば、倉賀野宿内の寺で確認された「飯盛女の墓」は、わずか28基だそうです。

「九品寺」にはその内6基が、墓地に入ってすぐの塀際に並んでいます。


昭和六十一年(1986)に無縁仏を一ヶ所に集めて供養塔を建てる時、ここに並べたそうです。

墓石の文字は肉眼で読めませんので、「新編高崎市史資料編14」の記載から引用します。
・越後國三島郡石地宿田澤屋栄之助娘はま 行歳廿才
・越後國蒲原郡柴田領
  沼垂内山木戸村
角蔵娘よしきく 行年廿四才
・北越後長岡 行年二十
・越後新潟平次娘きく
・越後三條裏館村こよ
・越後大宮嶌村へて
・越後三條久兵衛女里よ
・越後国長岡中源町権介娘やの

本堂脇に、「慈母観音」を刻んだ碑が建っています。


昭和二年(1927)の建立だそうですが、いいお顔をしています。
世の人々がみな、このように優しく穏やかな顔で、安寧の日々を過ごせますように。


【九品寺】