明けまして おめでとうございます。
今年も「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
さて、新町(しんまち)に残っていた道標、「左道通行」の続きです。
その情報を発信して下さった大野一美さんは、新町(しんまち)にある専福寺の総代をなさっています。
今年のある日、総代の方々が専福寺に集まって会合をしていた時、神流川橋たもとにある解体中のメッキ工場・メテック関東跡地の話題になりました。
その時、むかし建設省に勤めていたことのある方から、こんな話が出たそうです。
「そういえば、メッキ工場の角に建ってる石柱は、たぶん、むかし倉賀野の中山道に建ってたやつだと思うよ。」
もともと歴史に大変興味のある大野さんは、すぐに現地へ行き、このままでは取り壊されてしまうに違いないと思いました。
そこで、次のような文書を作成して、倉賀野町近在に住む歴史家に送ったのです。
しかし何らの動きもないまま三ヶ月が過ぎ、再び大野さんが現地へ行った時には、すでに更地となった工場跡に石柱はありませんでした。
現地に案内して下さった大野さんは、「この角に建ってたんですよ。」と教えてくれました。
撤去されたのは最近なので、もしやと思ってGoogleのストリートビューを見たら、写ってました!
幸運だったのは、工場解体にあたった業者が、この石柱は何か謂れのあるものではないかと思って、その処分方法を新町支所に問い合わせてくれたことでした。
それを受けた支所の担当職員が、これはやたらに廃却すべきものではないと思ってくれたのもまた幸運なことでした。
思えばこの道標、設置以来、実に幸運続きの人生(?)であったのです。
←大正九年(1920)の中山道上正六付近。
道の両側には杉と松の並木がありました。

昭和七年(1932)南側に新しい道路が作られて、南側の並木はそのまま中央分離帯となり、その高崎側と倉賀野側の二ヶ所に「左道通行」の道標が建てられました。
当時はまだ自動車の数も少なく夜間の照明もありませんでしたから、暗い道の真ん中に立っている道標には、よく自動車がぶつかったそうです。
高崎側に建っていた道標は修復不可能なほど破損して撤去され、倉賀野側だけが幸運にも残りました。
「倉賀野町の民俗」によると、
とありますが、大野さんは「昭和三十二年(1957)~三十三年頃まで建っていたと聞く。」と仰り、上正六にお住いの須永志嘉夫さんは「昭和三十七年(1962)頃撤去された。」と仰っています。
いずれにしても、その時この道路を管轄していたのが高崎ではなく新町(しんまち)の建設省であったことから、撤去された道標は建設省新町工事事務所に引き上げられたという訳です。
もしかすると、これも幸運だったのかも知れません。
引き上げられた道標は、いつの時点かは不明ながら、建設省から松浦メッキ工場そしてメテック関東となる敷地の東南角に建てられます。
その理由も不明ですが、もしかするとコーナーの目印としてか、あるいは建物のガード石として用いられたのか。
理由はともあれ、それによって現在まで残ったことは、幸運というほかありません。
今回の工場解体にあたっても、たまたまそれが専福寺総代会で話題になったこと、総代の中に道標のことを知っている人がいたこと、それを聞いたのが歴史好きな大野さんであったこと、解体業者が支所に問い合わせたことなど、いずれも奇跡のように幸運がつながってのことです。
こう見てくると、この道標自身が、その幸運を呼び寄せていたのではないかとさえ思えてきます。
あるいは、「元あった場所に戻りたい!」と一所懸命訴えていたのかも知れません。
迷道院としては、上正六の元あった場所の近くに戻し、この道標にぶつかり命を落とした方の供養塔として、またこの道標自身の幸運にあやかって、「幸運を呼ぶ道標」として高崎の一名所にしたらと思うのですが、皆様はいかがお思いでしょうか。
2017.1.6 追記
知人でブロ友の”いちじん”さんからコメントを頂戴し、ご尊父とその友人が「左道通行」の道標のところで撮影したという写真を送って頂きました。
見ると、道標には傷一つなく文字も黒々としていて、建ててまだ間がない頃の写真と思われます。
ご尊父(前列左)の卒業アルバム(昭和十三年)に載っていた写真だそうです。
ご提供、ありがとうございました。
今年も「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
さて、新町(しんまち)に残っていた道標、「左道通行」の続きです。
その情報を発信して下さった大野一美さんは、新町(しんまち)にある専福寺の総代をなさっています。
今年のある日、総代の方々が専福寺に集まって会合をしていた時、神流川橋たもとにある解体中のメッキ工場・メテック関東跡地の話題になりました。
その時、むかし建設省に勤めていたことのある方から、こんな話が出たそうです。
「そういえば、メッキ工場の角に建ってる石柱は、たぶん、むかし倉賀野の中山道に建ってたやつだと思うよ。」
もともと歴史に大変興味のある大野さんは、すぐに現地へ行き、このままでは取り壊されてしまうに違いないと思いました。
そこで、次のような文書を作成して、倉賀野町近在に住む歴史家に送ったのです。
しかし何らの動きもないまま三ヶ月が過ぎ、再び大野さんが現地へ行った時には、すでに更地となった工場跡に石柱はありませんでした。
現地に案内して下さった大野さんは、「この角に建ってたんですよ。」と教えてくれました。
撤去されたのは最近なので、もしやと思ってGoogleのストリートビューを見たら、写ってました!
幸運だったのは、工場解体にあたった業者が、この石柱は何か謂れのあるものではないかと思って、その処分方法を新町支所に問い合わせてくれたことでした。
それを受けた支所の担当職員が、これはやたらに廃却すべきものではないと思ってくれたのもまた幸運なことでした。
思えばこの道標、設置以来、実に幸運続きの人生(?)であったのです。

道の両側には杉と松の並木がありました。

昭和七年(1932)南側に新しい道路が作られて、南側の並木はそのまま中央分離帯となり、その高崎側と倉賀野側の二ヶ所に「左道通行」の道標が建てられました。
当時はまだ自動車の数も少なく夜間の照明もありませんでしたから、暗い道の真ん中に立っている道標には、よく自動車がぶつかったそうです。
高崎側に建っていた道標は修復不可能なほど破損して撤去され、倉賀野側だけが幸運にも残りました。
「倉賀野町の民俗」によると、
「 | 昭和二十四、五年(1949、1950)頃に、夜半出動した消防自動車が標識にぶつかり、死者、けが人が出る事故があった。 |
この頃には交通量も多くなっていて、この時以降、並木と標識は取り除かれ、広い一つの道になったといわれる。」 |
いずれにしても、その時この道路を管轄していたのが高崎ではなく新町(しんまち)の建設省であったことから、撤去された道標は建設省新町工事事務所に引き上げられたという訳です。
もしかすると、これも幸運だったのかも知れません。
引き上げられた道標は、いつの時点かは不明ながら、建設省から松浦メッキ工場そしてメテック関東となる敷地の東南角に建てられます。
その理由も不明ですが、もしかするとコーナーの目印としてか、あるいは建物のガード石として用いられたのか。
理由はともあれ、それによって現在まで残ったことは、幸運というほかありません。
今回の工場解体にあたっても、たまたまそれが専福寺総代会で話題になったこと、総代の中に道標のことを知っている人がいたこと、それを聞いたのが歴史好きな大野さんであったこと、解体業者が支所に問い合わせたことなど、いずれも奇跡のように幸運がつながってのことです。
こう見てくると、この道標自身が、その幸運を呼び寄せていたのではないかとさえ思えてきます。
あるいは、「元あった場所に戻りたい!」と一所懸命訴えていたのかも知れません。
迷道院としては、上正六の元あった場所の近くに戻し、この道標にぶつかり命を落とした方の供養塔として、またこの道標自身の幸運にあやかって、「幸運を呼ぶ道標」として高崎の一名所にしたらと思うのですが、皆様はいかがお思いでしょうか。
2017.1.6 追記
知人でブロ友の”いちじん”さんからコメントを頂戴し、ご尊父とその友人が「左道通行」の道標のところで撮影したという写真を送って頂きました。
見ると、道標には傷一つなく文字も黒々としていて、建ててまだ間がない頃の写真と思われます。
ご尊父(前列左)の卒業アルバム(昭和十三年)に載っていた写真だそうです。
ご提供、ありがとうございました。