2017年07月09日

史跡看板散歩-52 高札場跡

倉賀野町「高札場跡」です。

史跡看板散歩-52 高札場跡

昔からある説明板は、もうまっ黒で文字がほとんど読めません。
史跡看板散歩-52 高札場跡

その説明は新しく設置した史跡看板で。
史跡看板散歩-52 高札場跡

「定め書」も新しい高札に書き写されています。
史跡看板散歩-52 高札場跡

「五倫」とは、孟子の教え。
父子有親。「父子の間には親愛が有り」
君臣有義。「君臣の間には礼儀が有り」
夫婦有別。「夫婦の間には区別が有り」
長幼有序。「長幼の間には順序が有り」
朋友有信。「朋友の間には信義が有る」
(小林勝人氏著「孟子」より)

「鰥(かん)」は妻のいない男、「寡(か)」は夫のいない女、「孤」はみなしご、「独」は子のいない老人、「廃疾」は不治の病や不自由な身体を持つ人のことだそうです。

「教育勅語」なんぞを復活させるより、この「お定め」を復活させた方がよっぽどいいかも知れません。

もうひとつ「お定め」が掲げられています。
史跡看板散歩-52 高札場跡

「ばてれん」は神父、「いるまん」は神父になる前の修道士。
「立かへり者」は一度信仰を捨てたが再び信徒に戻った者。
さらに、「同宿」とは宣教師らと寝起きを共にして手助けをした人、「宗門」は信徒のことだそうです。

庶民は目前の金銭的誘惑に弱いということを、お上はよく知ってます。
自分は「一般人」だから関係ないと思っていても、他人の目に「自然(じねん)不審な者」と映れば、捕まっちゃいます。

「宗門」の仲間同志だって、油断はできません。
密告すれば最高金額の褒美を出すという、「司法取引」も用意されてますから。
村内の誰かが匿ったりすれば「組織的犯罪集団」、名主や隣組まで罰せられちゃいます。

まさに、「総監視社会」を創り出そうという狙いですね。
そういえばつい最近、似たような「お定め」が・・・。

高崎にも、「隠れキリシタン」はいたようです。
   ◇高崎の隠れキリシタン
   ◇隠れマリア

ところで、高札場のうしろに一本の樅の木があります。
史跡看板散歩-52 高札場跡

この木、「伝説の樅の木」と呼ばれているものです。
安政二年(1855)の倉賀野大火の折、この木の梢に降り立った大天狗により類焼を免れたというのが、「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋年寄・須賀長太郎家でした。

その「須賀長」は今ありませんが、その東隣で「脇本陣」をつとめていた「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家は、昔の佇まいを残しています。
史跡看板散歩-52 高札場跡

最近改修工事が行われてきれいになり、これを機に一般公開して頂けるのかと期待もしたのですが、やはり個人宅ということで非公開のままです。

ただ幸運なことに、改修中に内部を拝見させて頂く機会がありました。 → ◇脇本陣 壁の下張り
内部の写真はあまり載せてはいけないでしょうが、このくらいはいいかなと思うものを少し。
史跡看板散歩-52 高札場跡
史跡看板散歩-52 高札場跡

本陣は大名・公家しか泊まれませんが、脇本陣は一般の旅人も泊まれたそうで、太田蜀山人草津への旅の途中、「須賀喜」に一泊したと伝わっています。
ところが、その時の女中の客あしらいがあまり良くなかったらしく、こんな狂歌を残していったとか。

  須賀須賀と 銭は取れども 用足らず
           こんな宿屋に なんで喜太郎



【高札場跡】






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この記事へのコメント
さすがに脇本陣ですね。
大黒柱が欅の大木ですね。

梁も2尺あるようですね
ところで高札は、誰が庶民に
読んでくれたのでしょうか?

いつも勉強になります。
Posted by wasada49  at 2017年07月11日 14:11
>wasada49さん

立派な造りでしょう。
本陣の建物も残っていてほしかったですけどね。

高札の文字、意外と庶民も読めたんじゃないでしょうか。
寺子屋で習ったり、絵草子なんてのも読まれてたようですし、幕末に日本へ来た外国人が日本人の識字率の高さに驚いたっていう話も聞きますから。

古文書が読めない私なんぞがタイムスリップしたら、笑われちゃうかもしれませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年07月11日 20:45
少し近世地方文書の解読を勉強しています。
当時は、寺子屋も商人の子弟には商売向けの文字や文章を、農家の子供には農業をするときに役に立つような文字や文章を教えていたようです。非常に効率的で実用的な教え方、教材(「商売往来」、「百姓往来」)だったようですね。

また、当時の人たちは、くずし字を習ってから楷書の文字を習ったようです。しかし、楷書を習ったのは主に学者や僧侶などで、ほとんどの者はくずし字しか習わなかったと思われます。

ですので、当時の多くの人たちは高札の文章は読めたと思われます。
それに、代官所や大名、旗本の役所の出す文章は、形式がほとんど決まっていて、決まり文句も多いので、それほど苦労せずに読めたのではないでしょうか。(現代の我々は読むのに四苦八苦してますが)
Posted by 鷲郎  at 2020年10月05日 04:33
>鷲郎さん

パソコンを使うようになってから、漢字が書けなくて困ることが多くなりました。
その内に、漢字は書けなくても読めればいいという時代が来るんじゃないでしょうか。
くずし字がスラスラ読める人が尊敬されるように、漢字がサラサラ書ける人が尊敬されるようになるかも知れませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2020年10月05日 09:23
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