倉賀野町の「高札場跡」です。
昔からある説明板は、もうまっ黒で文字がほとんど読めません。
その説明は新しく設置した史跡看板で。
「定め書」も新しい高札に書き写されています。
「五倫」とは、孟子の教え。
「鰥(かん)」は妻のいない男、「寡(か)」は夫のいない女、「孤」はみなしご、「独」は子のいない老人、「廃疾」は不治の病や不自由な身体を持つ人のことだそうです。
「教育勅語」なんぞを復活させるより、この「お定め」を復活させた方がよっぽどいいかも知れません。
もうひとつ「お定め」が掲げられています。
「ばてれん」は神父、「いるまん」は神父になる前の修道士。
「立かへり者」は一度信仰を捨てたが再び信徒に戻った者。
さらに、「同宿」とは宣教師らと寝起きを共にして手助けをした人、「宗門」は信徒のことだそうです。
庶民は目前の金銭的誘惑に弱いということを、お上はよく知ってます。
自分は「一般人」だから関係ないと思っていても、他人の目に「自然(じねん)不審な者」と映れば、捕まっちゃいます。
「宗門」の仲間同志だって、油断はできません。
密告すれば最高金額の褒美を出すという、「司法取引」も用意されてますから。
村内の誰かが匿ったりすれば「組織的犯罪集団」、名主や隣組まで罰せられちゃいます。
まさに、「総監視社会」を創り出そうという狙いですね。
そういえばつい最近、似たような「お定め」が・・・。
高崎にも、「隠れキリシタン」はいたようです。
◇高崎の隠れキリシタン
◇隠れマリア
ところで、高札場のうしろに一本の樅の木があります。
この木、「伝説の樅の木」と呼ばれているものです。
安政二年(1855)の倉賀野大火の折、この木の梢に降り立った大天狗により類焼を免れたというのが、「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋年寄・須賀長太郎家でした。
その「須賀長」は今ありませんが、その東隣で「脇本陣」をつとめていた「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家は、昔の佇まいを残しています。
最近改修工事が行われてきれいになり、これを機に一般公開して頂けるのかと期待もしたのですが、やはり個人宅ということで非公開のままです。
ただ幸運なことに、改修中に内部を拝見させて頂く機会がありました。 → ◇脇本陣 壁の下張り
内部の写真はあまり載せてはいけないでしょうが、このくらいはいいかなと思うものを少し。
本陣は大名・公家しか泊まれませんが、脇本陣は一般の旅人も泊まれたそうで、太田蜀山人が草津への旅の途中、「須賀喜」に一泊したと伝わっています。
ところが、その時の女中の客あしらいがあまり良くなかったらしく、こんな狂歌を残していったとか。
須賀須賀と 銭は取れども 用足らず
こんな宿屋に なんで喜太郎
昔からある説明板は、もうまっ黒で文字がほとんど読めません。
その説明は新しく設置した史跡看板で。
「定め書」も新しい高札に書き写されています。
「五倫」とは、孟子の教え。
父子有親。 | 「父子の間には親愛が有り」 |
君臣有義。 | 「君臣の間には礼儀が有り」 |
夫婦有別。 | 「夫婦の間には区別が有り」 |
長幼有序。 | 「長幼の間には順序が有り」 |
朋友有信。 | 「朋友の間には信義が有る」 |
(小林勝人氏著「孟子」より)
「鰥(かん)」は妻のいない男、「寡(か)」は夫のいない女、「孤」はみなしご、「独」は子のいない老人、「廃疾」は不治の病や不自由な身体を持つ人のことだそうです。
「教育勅語」なんぞを復活させるより、この「お定め」を復活させた方がよっぽどいいかも知れません。
もうひとつ「お定め」が掲げられています。
「ばてれん」は神父、「いるまん」は神父になる前の修道士。
「立かへり者」は一度信仰を捨てたが再び信徒に戻った者。
さらに、「同宿」とは宣教師らと寝起きを共にして手助けをした人、「宗門」は信徒のことだそうです。
庶民は目前の金銭的誘惑に弱いということを、お上はよく知ってます。
自分は「一般人」だから関係ないと思っていても、他人の目に「自然(じねん)不審な者」と映れば、捕まっちゃいます。
「宗門」の仲間同志だって、油断はできません。
密告すれば最高金額の褒美を出すという、「司法取引」も用意されてますから。
村内の誰かが匿ったりすれば「組織的犯罪集団」、名主や隣組まで罰せられちゃいます。
まさに、「総監視社会」を創り出そうという狙いですね。
そういえばつい最近、似たような「お定め」が・・・。
高崎にも、「隠れキリシタン」はいたようです。
◇高崎の隠れキリシタン
◇隠れマリア
ところで、高札場のうしろに一本の樅の木があります。
この木、「伝説の樅の木」と呼ばれているものです。
安政二年(1855)の倉賀野大火の折、この木の梢に降り立った大天狗により類焼を免れたというのが、「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋年寄・須賀長太郎家でした。
その「須賀長」は今ありませんが、その東隣で「脇本陣」をつとめていた「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家は、昔の佇まいを残しています。
最近改修工事が行われてきれいになり、これを機に一般公開して頂けるのかと期待もしたのですが、やはり個人宅ということで非公開のままです。
ただ幸運なことに、改修中に内部を拝見させて頂く機会がありました。 → ◇脇本陣 壁の下張り
内部の写真はあまり載せてはいけないでしょうが、このくらいはいいかなと思うものを少し。
本陣は大名・公家しか泊まれませんが、脇本陣は一般の旅人も泊まれたそうで、太田蜀山人が草津への旅の途中、「須賀喜」に一泊したと伝わっています。
ところが、その時の女中の客あしらいがあまり良くなかったらしく、こんな狂歌を残していったとか。
須賀須賀と 銭は取れども 用足らず
こんな宿屋に なんで喜太郎
【高札場跡】