「高札場跡」から200mほど東へ行った、「ベイシアマート倉賀野店」のところが「本陣跡」です。
看板の絵図を見ても、本陣・勅使河原(てしがわら)家の大きさを窺い知ることができます。
因みに「脇本陣」(須賀喜太郎家、須賀庄兵衛家)は、このように描かれています。
「本陣」は門・玄関・書院を設ける特権が与えられ、上段の間も設けられていたそうです。
一方「脇本陣」は門・玄関のみ設置が認められていましたが、倉賀野の「脇本陣」では玄関は設けていなかったようです。
「須賀勝彌家文書」(新編高崎市史通史編3)に、天明五年(1785)時点の夫々の屋敷規模が記載されています。
倉賀野宿では初め「本陣」のみがおかれ、「脇本陣」は後になって設けられたようで、天保十三年(1842)の「松本家文書」(文献による倉賀野史第三巻)によると、こうなっています。
勅使河原家は中世「倉賀野十六騎」の筆頭・勅使河原備後守の子孫ということで、土地の有力者として大きな屋敷を有していました。
そのため高崎藩から「本陣」という役を任されたのでしょうが、苗字帯刀を許されたものの藩からの手当は下付されず、その経営はなかなか大変だったようです。
「脇本陣」は公的な宿泊者がない時は旅籠屋として一般客を宿泊させることができますが、「本陣」はそれを禁止されていました。
ではどうやって賄っていたかというと、宿泊する大名からの下賜金品と宿場からの助成金に依っていたといいます。
幕末に近づくにつれて大名の財政も乏しくなり、物価は高くなり、しかし助成金は据え置きという中でのやりくりで、相当苦しかったろうと思われます。
そのためか、勅使河原家は明治初年に没落し、現在子孫の行方も知られていないそうです。(文献による倉賀野史第三巻)
勅使河原家の西隣に、江戸初期から問屋年寄を勤めていた須賀善右衛門家がありました。
須賀善右衛門家も幕末に近づいて次第に衰微していったとみえ、安政三年(1856)には板鼻宿の造り酒屋・十一屋六左衛門に土地を貸しています。
十一屋六左衛門は近江国野田村出身の野田六左衛門、宝暦三年(1753)に板鼻宿で酒造業を開き一財を成した人です。
板鼻の「十一屋」については、グンブロ仲間の風子さんの記事をご覧ください。 → ◇板鼻・十一屋酒造の銘酒 “群鶴” ♪
その支店として目を付けた場所が、倉賀野宿の須賀善右衛門家だった訳です。
野田六左衛門は、その借地で酒を造り始めます。
そして、明治十八年(1885)にはその土地を買取っています。
明治二十五年(1892)の「倉賀野支店」の略図です。
ところが、いつの頃か分からないのですが、いきなり酒から味噌・醬油の醸造に変更します。
なんでも、火事になった時に消防の連中が火を消さずに店の酒を飲んでいたのを見て、これはいけないということで味噌醬油をつくることにしたというのですが・・・。(倉賀野町の民俗)
地元では「野田六商店」と呼ばれて親しまれ、商売も順調だったようで、大正期に敷地を拡大し真っ白な大きな蔵を建てたそうです。
おそらくこの時に、本陣・勅使河原家の土地も買取って拡張したのでしょう。
しかし戦後になって、さしもの「野田六商店」も勢いを失って閉店されます。
建物は昭和五十五年(1980)頃に取り壊されますが、昭和四十九年(1974)の航空写真に往時の建物群が写っています。
その跡地には「スーパー丸幸」ができ、その「丸幸」も平成十八年(2006)に閉店、「ベイシアマート」に変わって現在に至る訳です。
残念ながら、「倉賀野宿本陣」の遺構も「十一屋・野田六商店」の遺構もまったく残りませんでしたが、歴史を知って現地を見ると、感慨深いものがあります。
看板の絵図を見ても、本陣・勅使河原(てしがわら)家の大きさを窺い知ることができます。
因みに「脇本陣」(須賀喜太郎家、須賀庄兵衛家)は、このように描かれています。
「本陣」は門・玄関・書院を設ける特権が与えられ、上段の間も設けられていたそうです。
一方「脇本陣」は門・玄関のみ設置が認められていましたが、倉賀野の「脇本陣」では玄関は設けていなかったようです。
「須賀勝彌家文書」(新編高崎市史通史編3)に、天明五年(1785)時点の夫々の屋敷規模が記載されています。
◇ | 本陣(勅使河原八左衛門家) | |||||
敷地 間口14間 | 奥行40間 | 560坪 | ||||
家屋 間口13間3尺 | 奥行14間 | 194坪 | ||||
◇ | 脇本陣(須賀喜太郎家) | |||||
敷地 間口12間5尺4寸 | 奥行29間 | 374坪 | ||||
家屋 間口 9間3尺 | 奥行15間 | 94坪 | ||||
◇ | 脇本陣(須賀庄兵衛家) | |||||
敷地 間口22間5尺 | 奥行27間 | 617坪4分 | ||||
家屋 間口13間 | 奥行13間 | 72坪 |
倉賀野宿では初め「本陣」のみがおかれ、「脇本陣」は後になって設けられたようで、天保十三年(1842)の「松本家文書」(文献による倉賀野史第三巻)によると、こうなっています。
◇ | 本陣(勅使河原八左衛門家) | |||||
八代以前 | 元和年中ゟ本陣相勤申候 | |||||
◇ | 脇本陣(須賀喜太郎家) | |||||
六代以前 | 延宝年中ゟ脇本陣幷旅籠屋仕来申候 | |||||
◇ | 脇本陣(須賀庄兵衛家) | |||||
七代以前 | 延宝年中ゟ脇本陣仕来候 |
【元和(1615-1624) 延宝(1673-1681)】 |
勅使河原家は中世「倉賀野十六騎」の筆頭・勅使河原備後守の子孫ということで、土地の有力者として大きな屋敷を有していました。
そのため高崎藩から「本陣」という役を任されたのでしょうが、苗字帯刀を許されたものの藩からの手当は下付されず、その経営はなかなか大変だったようです。
「脇本陣」は公的な宿泊者がない時は旅籠屋として一般客を宿泊させることができますが、「本陣」はそれを禁止されていました。
ではどうやって賄っていたかというと、宿泊する大名からの下賜金品と宿場からの助成金に依っていたといいます。
幕末に近づくにつれて大名の財政も乏しくなり、物価は高くなり、しかし助成金は据え置きという中でのやりくりで、相当苦しかったろうと思われます。
そのためか、勅使河原家は明治初年に没落し、現在子孫の行方も知られていないそうです。(文献による倉賀野史第三巻)
勅使河原家の西隣に、江戸初期から問屋年寄を勤めていた須賀善右衛門家がありました。
須賀善右衛門家も幕末に近づいて次第に衰微していったとみえ、安政三年(1856)には板鼻宿の造り酒屋・十一屋六左衛門に土地を貸しています。
十一屋六左衛門は近江国野田村出身の野田六左衛門、宝暦三年(1753)に板鼻宿で酒造業を開き一財を成した人です。
板鼻の「十一屋」については、グンブロ仲間の風子さんの記事をご覧ください。 → ◇板鼻・十一屋酒造の銘酒 “群鶴” ♪
その支店として目を付けた場所が、倉賀野宿の須賀善右衛門家だった訳です。
野田六左衛門は、その借地で酒を造り始めます。
そして、明治十八年(1885)にはその土地を買取っています。
明治二十五年(1892)の「倉賀野支店」の略図です。
ところが、いつの頃か分からないのですが、いきなり酒から味噌・醬油の醸造に変更します。
なんでも、火事になった時に消防の連中が火を消さずに店の酒を飲んでいたのを見て、これはいけないということで味噌醬油をつくることにしたというのですが・・・。(倉賀野町の民俗)
地元では「野田六商店」と呼ばれて親しまれ、商売も順調だったようで、大正期に敷地を拡大し真っ白な大きな蔵を建てたそうです。
おそらくこの時に、本陣・勅使河原家の土地も買取って拡張したのでしょう。
しかし戦後になって、さしもの「野田六商店」も勢いを失って閉店されます。
建物は昭和五十五年(1980)頃に取り壊されますが、昭和四十九年(1974)の航空写真に往時の建物群が写っています。
その跡地には「スーパー丸幸」ができ、その「丸幸」も平成十八年(2006)に閉店、「ベイシアマート」に変わって現在に至る訳です。
残念ながら、「倉賀野宿本陣」の遺構も「十一屋・野田六商店」の遺構もまったく残りませんでしたが、歴史を知って現地を見ると、感慨深いものがあります。
【倉賀野宿本陣跡】