「倉賀野宿本陣跡」の道向こうに細道があり、その突き当たりが「九品寺」(くほんじ)です。
看板にはいろいろ書かれてますが、迷道院としては「九品」とは何かが知りたいところです。
Wiki.によると、「物質や人の性質を3×3で分類したもの」だそうで、「上品」とか「下品」という言葉はここからきているのだとか。
九つの区分の最も下が「下品下生」(げぼん・げしょう)で、「五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者」とあります。
ほ~、さぞかし地獄は大賑わいだろう・・・、行きたくないなぁ。
山門を潜った右手にケヤキの大木、幹のコブが生きてきた歳月の長さを感じさせます。
本堂の破風には、「葵の御紋」。
「九品寺」は浄土宗総本山「知恩院」の末寺で、徳川家が浄土宗を信仰していたことから朱印地十五石を賜っていたとか。
史跡看板には、いろんな人の墓があると書いてありますが、迷道院は「飯盛女の墓」の他はあまり興味が湧きません。
倉賀野宿に何人の飯盛女がいたのかよく分からないのですが、天保十三年(1842)の「旅篭屋渡世書上帳」に「飯売旅篭屋三十二軒」とあり、定めでは一軒二人までということになっているので、単純に掛け算をすれば64人ということになります。
しかし、実際には定めを越えた人数を置いていた旅籠が多かったようです。
そのため度々お上の手入れがあり、享和三年(1803)には22軒の旅籠が過料銭と手鎖を申し付けられ、定めを越えた数の飯盛女が53人もいたといいます。
この時捕えられた飯盛女たちは、宿役人に預けられた後、49人が倉賀野宿内や高崎城下、周辺の村々へ妻として縁づきます。
また国元(越後国蒲原郡)へ帰った者2人、剃髪して仏門に入った者もいたそうです。
越後国小嶋谷村の喜左衛門が倉賀野宿の旅籠屋・善兵衛に出した、「飯売下女年季奉公人請状之事」という証文が、「文献による倉賀野史第三巻」に載っています。
原文は候文ですが、現代語訳の方をご紹介します。
娘が死んだときのことも、証文に書かれています。
しかし、ほとんどの飯盛女たちは墓も名も残さずに生涯を終えて逝ったのでしょう。
「新編高崎市史通史編3」によれば、倉賀野宿内の寺で確認された「飯盛女の墓」は、わずか28基だそうです。
「九品寺」にはその内6基が、墓地に入ってすぐの塀際に並んでいます。
昭和六十一年(1986)に無縁仏を一ヶ所に集めて供養塔を建てる時、ここに並べたそうです。
墓石の文字は肉眼で読めませんので、「新編高崎市史資料編14」の記載から引用します。
本堂脇に、「慈母観音」を刻んだ碑が建っています。
昭和二年(1927)の建立だそうですが、いいお顔をしています。
世の人々がみな、このように優しく穏やかな顔で、安寧の日々を過ごせますように。
看板にはいろいろ書かれてますが、迷道院としては「九品」とは何かが知りたいところです。
Wiki.によると、「物質や人の性質を3×3で分類したもの」だそうで、「上品」とか「下品」という言葉はここからきているのだとか。
九つの区分の最も下が「下品下生」(げぼん・げしょう)で、「五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者」とあります。
ほ~、さぞかし地獄は大賑わいだろう・・・、行きたくないなぁ。
山門を潜った右手にケヤキの大木、幹のコブが生きてきた歳月の長さを感じさせます。
本堂の破風には、「葵の御紋」。
「九品寺」は浄土宗総本山「知恩院」の末寺で、徳川家が浄土宗を信仰していたことから朱印地十五石を賜っていたとか。
(文献による倉賀野史第三巻)
史跡看板には、いろんな人の墓があると書いてありますが、迷道院は「飯盛女の墓」の他はあまり興味が湧きません。
倉賀野宿に何人の飯盛女がいたのかよく分からないのですが、天保十三年(1842)の「旅篭屋渡世書上帳」に「飯売旅篭屋三十二軒」とあり、定めでは一軒二人までということになっているので、単純に掛け算をすれば64人ということになります。
(文献による倉賀野史第三巻)
しかし、実際には定めを越えた人数を置いていた旅籠が多かったようです。
そのため度々お上の手入れがあり、享和三年(1803)には22軒の旅籠が過料銭と手鎖を申し付けられ、定めを越えた数の飯盛女が53人もいたといいます。
(文献による倉賀野史第三巻)
この時捕えられた飯盛女たちは、宿役人に預けられた後、49人が倉賀野宿内や高崎城下、周辺の村々へ妻として縁づきます。
また国元(越後国蒲原郡)へ帰った者2人、剃髪して仏門に入った者もいたそうです。
(新編高崎市史通史編3)
越後国小嶋谷村の喜左衛門が倉賀野宿の旅籠屋・善兵衛に出した、「飯売下女年季奉公人請状之事」という証文が、「文献による倉賀野史第三巻」に載っています。
原文は候文ですが、現代語訳の方をご紹介します。
「 | 越後国三嶋郡小嶋谷村喜左衛門の娘ちい十六歳で、よんどころない金子入用のため、親類一同相談の上、倉賀野へ連れて来て、旅篭屋善兵衛方へ旅篭屋飯売下女として、年季奉公に出す。 |
文政七年(1824)八月から天保二年(1831)まで、六年六カ月間、給金は拾八両と極(き)め、給金残らず慥(たしか)に受取りました。 | |
そうしたからには、諸親類や外の者より異議申立をする者は一人もありません。 もし、何か申す者が出たならば、我等何方(いずかた)までも出掛け、貴殿には御苦労をお掛け致しません。 |
|
万一、取り逃げ、欠落など致しましたら、早速尋ね出し、お渡し致します。 もし行方知れずの場合には、代わりの人なりとも、給金でも、思召次第に差出します。 |
|
年季中勝手なお暇など決して取らせません。 | |
ことに、ご家内の風にあいませんときは、お知らせ次第出掛けて来て、他の宿へ渡しても良いし、我等遠方のために貴殿の手筋で、他の旅篭屋へ住替えさせ、お金を御取り下さい。 後日に加印請状を改めます。 |
|
もし、年季中に妻に欲しいとの人がありましたら本人得心の上、先様を見届けの上、貴殿(主人)の娘として、縁付かせてください。」 |
娘が死んだときのことも、証文に書かれています。
「 | 万一このもの煩死・病死・けが・あやまちにて、不慮の死の場合は、お知らせ次第お伺いして、立合い致すつもりですが、遠方のためできかねますから倉賀野宿の請け人(勘七)立合の上で、貴殿旦那寺に御取置、後日に法名をおつけください。」 |
しかし、ほとんどの飯盛女たちは墓も名も残さずに生涯を終えて逝ったのでしょう。
「新編高崎市史通史編3」によれば、倉賀野宿内の寺で確認された「飯盛女の墓」は、わずか28基だそうです。
「九品寺」にはその内6基が、墓地に入ってすぐの塀際に並んでいます。
昭和六十一年(1986)に無縁仏を一ヶ所に集めて供養塔を建てる時、ここに並べたそうです。
墓石の文字は肉眼で読めませんので、「新編高崎市史資料編14」の記載から引用します。
・越後國三島郡石地宿 | 田澤屋栄之助娘はま | 行歳廿才 | |
・越後國蒲原郡柴田領 沼垂内山木戸村 | 角蔵娘よしきく | 行年廿四才 | |
・北越後長岡 | 瀧 | 行年二十 | |
・越後新潟 | 平次娘きく | ||
・越後三條裏館村 | こよ | ||
・越後大宮嶌村 | へて | ||
・越後三條 | 久兵衛女里よ | ||
・越後国長岡中源町 | 権介娘やの |
本堂脇に、「慈母観音」を刻んだ碑が建っています。
昭和二年(1927)の建立だそうですが、いいお顔をしています。
世の人々がみな、このように優しく穏やかな顔で、安寧の日々を過ごせますように。
【九品寺】