大正中期から昭和初期にかけて、倉賀野から高崎方面へ進むと、写真のような風景が見られたようです。
(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)
ここは倉賀野町正六(しょうろく)です。
「正六」とは面白い地名ですが、一説には、新田義貞の血を引いているという女性が、この地の浅間山(せんげんやま)に住んでいて、その女性が「正六位」という位階を持っていたことから、この村を「正六」と呼ぶようになったということです。
写真の場所は、大正半ば以降の上正六粕沢という所で、写っている家は「諸国商人宿」だそうです。
実は、この家について貴重な情報を得ることができました。
前回の「並木たずねて・・・」でお世話になった須永志嘉夫さんがまとめられた、「上正六村 歴史年録」という小冊子に次のようなことが記されています。
遡って江戸時代には、このあたりに「粕沢の立場茶屋」というのがあったといいます。(高崎の散歩道 第二集)
茶屋ができたのは、文化年間(1804~1817)、茶屋の主は、高崎宿本町に住む当代の文化人、花岡義旭(平八郎)という人だそうです。
当時の粕沢は滝もある水量の多い川で、その水を引いて池には蓮の花が咲き、鯉の泳ぐ風流な茶屋だったということです。
参勤交代の大名も、旅人も必ず立ち寄ったといいます。
「高崎の散歩道 第二集」には、「粕沢の立場茶屋」は「はなおかゴルフ練習場」のところであったと書いてあります。
ゴルフ練習場の名前からすると、花岡義旭のご子孫の経営だったのでしょうか。
現在は、ドラッグストア「ウエルシア」になっています。
(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)
ここは倉賀野町正六(しょうろく)です。
「正六」とは面白い地名ですが、一説には、新田義貞の血を引いているという女性が、この地の浅間山(せんげんやま)に住んでいて、その女性が「正六位」という位階を持っていたことから、この村を「正六」と呼ぶようになったということです。
写真の場所は、大正半ば以降の上正六粕沢という所で、写っている家は「諸国商人宿」だそうです。
実は、この家について貴重な情報を得ることができました。
前回の「並木たずねて・・・」でお世話になった須永志嘉夫さんがまとめられた、「上正六村 歴史年録」という小冊子に次のようなことが記されています。
「 | 明治の中頃、粕沢橋のたもとには、長野堰・五貫堀の流れに沿って篠笹の茂る土手があり、その土手下の窪みに冷たい澄んだ水が湧き出ていた。 |
その湧水を使って、酢饅頭をつくっていた『清水屋』というお店があった。 | |
『清水屋』が昭和初期に店を閉めた後、村越という女性が住み着いて、出稼ぎの人たちを相手に始めた木賃宿が『諸国商人宿』だった。」 |
遡って江戸時代には、このあたりに「粕沢の立場茶屋」というのがあったといいます。(高崎の散歩道 第二集)
茶屋ができたのは、文化年間(1804~1817)、茶屋の主は、高崎宿本町に住む当代の文化人、花岡義旭(平八郎)という人だそうです。
当時の粕沢は滝もある水量の多い川で、その水を引いて池には蓮の花が咲き、鯉の泳ぐ風流な茶屋だったということです。
参勤交代の大名も、旅人も必ず立ち寄ったといいます。
「高崎の散歩道 第二集」には、「粕沢の立場茶屋」は「はなおかゴルフ練習場」のところであったと書いてあります。
ゴルフ練習場の名前からすると、花岡義旭のご子孫の経営だったのでしょうか。
現在は、ドラッグストア「ウエルシア」になっています。
【粕沢の立場茶屋があったといわれる場所】