前回の「飯玉さまの引き合わせ」に登場する、倉賀野神社への参道を「宮原小路」と呼ぶそうである。
平安時代の末、この一帯は「宮原荘(みやはらのしょう)」という荘園だったというのが謂れであろう。
その「宮」の起源は古く、紀元前まで遡る。
倉賀野神社の由緒によると、「上毛野君(かみつけぬのきみ)」の祖と言われる「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が、紀元前50年?に「崇神天皇(すじんてんのう)」の命を受けて東国を平定する折り、陣中としたこの地に松を植え、都から持参した「亀石」という石を御魂代(みたましろ)として、祭祀をしたのが始まりだという。
この「亀石」は、当時、都で猛威をふるった疫病を鎮めたといわれる、「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊であった。
そこから、この「宮」は「大国玉明神(おおくにたまみょうじん)」と呼ばれていたという。
時は下って江戸時代になると、「飯玉大明神(いいだまだいみょうじん)」と名前を変える。
今でも近隣の人は、倉賀野神社のことを「飯玉さま」と呼ぶ。
その名前の由来となったのが、本殿向拝の彫刻に表されている「飯玉縁起(いいだまえんぎ)」の伝説である。
神社のHPには、こう書かれている。
末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代(もくだい)の職まで賜るようになる。
これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。
3年後八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄達ととその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い、年に一人の生贄を許すこととした。
やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。
都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。
真っ赤な舌をのばし爪を立て怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光。
すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた。
そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。
八郎大蛇がいたという「鳥啄池(とりばみのいけ)」跡というのが、神社の東、道を隔てたところにある。
参道の改修工事により整備されたようであるが、江戸時代には深さ八尺(2.4m)の池があったという。
さらに、「宮原の一つ松」というのが、東西十二間(21.8m)の枝を広げていたらしい。
それにしても、なぜいきなり「飯玉さま」が出て来たのだろう?
その謎解きは、また次回ということに・・・。
平安時代の末、この一帯は「宮原荘(みやはらのしょう)」という荘園だったというのが謂れであろう。
その「宮」の起源は古く、紀元前まで遡る。
倉賀野神社の由緒によると、「上毛野君(かみつけぬのきみ)」の祖と言われる「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が、紀元前50年?に「崇神天皇(すじんてんのう)」の命を受けて東国を平定する折り、陣中としたこの地に松を植え、都から持参した「亀石」という石を御魂代(みたましろ)として、祭祀をしたのが始まりだという。
この「亀石」は、当時、都で猛威をふるった疫病を鎮めたといわれる、「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊であった。
そこから、この「宮」は「大国玉明神(おおくにたまみょうじん)」と呼ばれていたという。
時は下って江戸時代になると、「飯玉大明神(いいだまだいみょうじん)」と名前を変える。
今でも近隣の人は、倉賀野神社のことを「飯玉さま」と呼ぶ。
その名前の由来となったのが、本殿向拝の彫刻に表されている「飯玉縁起(いいだまえんぎ)」の伝説である。
神社のHPには、こう書かれている。
~……~……~……~……~……~……~……~……~
光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代(もくだい)の職まで賜るようになる。
これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。
3年後八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄達ととその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い、年に一人の生贄を許すこととした。
やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。
都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。
真っ赤な舌をのばし爪を立て怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光。
すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた。
そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。
~……~……~……~……~……~……~……~……~
八郎大蛇がいたという「鳥啄池(とりばみのいけ)」跡というのが、神社の東、道を隔てたところにある。
参道の改修工事により整備されたようであるが、江戸時代には深さ八尺(2.4m)の池があったという。
さらに、「宮原の一つ松」というのが、東西十二間(21.8m)の枝を広げていたらしい。
それにしても、なぜいきなり「飯玉さま」が出て来たのだろう?
その謎解きは、また次回ということに・・・。
【鳥啄池跡】