Mr.Max倉賀野店の北東に、大きな貯水池があります。
その貯水池は「新堤」(しんづつみ)と呼ばれています。
「通称桜木町鯉池」とあるように、平成八、九年頃まで新(あら)町の養鯉業者が鯉の養殖をしていたのだそうです。
その鯉は、長野県まで列車輸送されて「佐久の鯉」として売られていたといいます。(倉賀野町の民俗)
今ならさしづめ産地偽装で問題になってたかも知れませんね。
「新堤」は天明六年(1786)に完成したとありますが、昭和十一年(1936)に改修工事が行われ、その記念碑が建てられています。
記念碑には「新舊(きゅう)溜池改修記念碑」と刻まれています。
「舊溜池」というのが、看板に書かれている「古堤」(ふるづつみ)のことです。
「古堤」は、「新堤」の南東400mの所にあります。
「古堤」の向こうに見えるのは、「高崎市立倉賀野保育所」です。
その正門脇に、「古堤の由緒」碑が建っています。
倉賀野の農業用水は長野堰から引いています。
江木町の「円筒分水」で「倉賀野堰」に分流し、さらに上佐野町の「粕沢堰」で分流し、また字樋越で分流して一本は「五貫堀」に、もう一本はさらにいくつもに分流した末に、ようやく下流域に細々とした水が辿り着きます。
そんな訳ですから、下流域の下町や南町の農家にとって、「古堤」と「新堤」がどれほど大切な溜池だったことか。
今も満々と水を湛える二つの堤は、これからも先人の知恵と努力の歴史を伝えていくことでしょう。
その貯水池は「新堤」(しんづつみ)と呼ばれています。
「通称桜木町鯉池」とあるように、平成八、九年頃まで新(あら)町の養鯉業者が鯉の養殖をしていたのだそうです。
その鯉は、長野県まで列車輸送されて「佐久の鯉」として売られていたといいます。(倉賀野町の民俗)
今ならさしづめ産地偽装で問題になってたかも知れませんね。
「新堤」は天明六年(1786)に完成したとありますが、昭和十一年(1936)に改修工事が行われ、その記念碑が建てられています。
記念碑には「新舊(きゅう)溜池改修記念碑」と刻まれています。
「舊溜池」というのが、看板に書かれている「古堤」(ふるづつみ)のことです。
「古堤」は、「新堤」の南東400mの所にあります。
「古堤」の向こうに見えるのは、「高崎市立倉賀野保育所」です。
その正門脇に、「古堤の由緒」碑が建っています。
「古堤の由緒」 | |
「 | 古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代、全国的な大旱魃起り、時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。 |
その後管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり、下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。 |
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時は移り世は変り、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なる事を認めて相謀りて、ここにその半ばを埋め立て、保育所を建設するに至る。 | |
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。 |
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昭和五十二年四月吉日 倉賀野下組水利組合 |
倉賀野の農業用水は長野堰から引いています。
江木町の「円筒分水」で「倉賀野堰」に分流し、さらに上佐野町の「粕沢堰」で分流し、また字樋越で分流して一本は「五貫堀」に、もう一本はさらにいくつもに分流した末に、ようやく下流域に細々とした水が辿り着きます。
そんな訳ですから、下流域の下町や南町の農家にとって、「古堤」と「新堤」がどれほど大切な溜池だったことか。
今も満々と水を湛える二つの堤は、これからも先人の知恵と努力の歴史を伝えていくことでしょう。
【新堤】
【古堤】