2009年08月12日

新堤と古堤

「荒神山の一本杉」の写真を撮りに行って、そういえば、この辺に「古堤(ふるづつみ)」というのがあったなぁ、と思い出しました。

「古堤」のことを知ったのは、安楽寺にある「倉賀野八景」の額がきっかけでした。
「新・倉賀野八景」の漢詩の中に、
「雨夜更遊新湖頭」(雨夜さらに遊ぶ 新湖[しんつつみ]の頭[ほとり])
というのがあって、「新湖(しんつつみ)」とは何だろうと思って、調べてみたのでした。

倉賀野駅の100mほど東、線路沿いにある用水池が「新堤(しんづつみ)」です。

ほとりに建つ石碑には「新(旧)溜池改修記念碑」と刻まれています。
新溜池が天明六年(1786)に作られた「新堤」旧溜池がそれより古い「古堤」ということで、ともに昭和十一年(1936)に改修工事がなされました。

倉賀野の下町にある、その「古堤」が、これです。→

一見、何の変哲もない用水池ですが、かつて、この地区にとっては重要な溜池でした。

この地域の農業用水は、長野堰の末流である五貫堀川の更に下流の末水(ばっすい)であるため、いつも水量が不足がちだったようです。
そこで、旱魃に備えてつくられたのが、この「古堤」なのです。

「古堤」に隣接する高崎市立倉賀野保育所の脇に、「古堤」の由来を刻んだ石碑が建てられています。

その碑文をご紹介しましょう。

「古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩(6,264㎡)にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代(1661~1672)全国的な大旱魃起こり、時の高崎藩主年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。

その後、管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。

時は移り世は変わり、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なることを認めて合い謀りて、ここにその半ばを埋め立て保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。
昭和五十二年四月吉日   倉賀野下組水利組合」


いやー、高崎藩は単なるバラマキ減税でなく、ちゃんと将来を見据えた施策をとっていたんですね。
さらに、昭和初期までこの溜池でを養殖し、信州の佐久まで列車輸送して、「佐久の鯉」として売っていた業者もいたといいます。
先人たち、なかなかしっかりしております。

【新堤】

【古堤】


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Posted by 迷道院高崎 at 06:22
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