7月19日(日)に岡山で竜巻が発生し、2棟が全壊、71棟が一部損壊するなど、大きな被害が出たようです。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
このニュースに接し、思い出したことがあります。
旧中山道松並木の取材をしている時、上正六の須永志嘉夫さんから、昭和六年(1931)にこの辺で大きな竜巻被害があったということを聞いていたのです。
いつかブログに書こうと思いながら、ずっと忘れてしまっていました。
上正六の歴史を几帳面に記録している須永さんでしたが、竜巻のあった時は小学6年生だったそうで、写真や新聞記事はお持ちでありませんでした。
そこで今日、県立前橋文書館へ行って当時の新聞記事のマイクロフィルムを探してきました。
竜巻があったのは、昭和六年六月十二日(金)の午前1時40分頃だったということです。
住家12戸が空中高く捲き上げられ、死者2名重軽傷者10数名とあります。
旧中山道の松並木も、この竜巻で大半が倒潰してしまったのですね。
当時、前橋測候所は次のような見解を示しています。
「この時の日本列島付近には、オホーツク方面の高気圧と、四国土佐灘沖の低気圧、および日本海方面の低気圧が分布していた。
高崎は、これら三つの高低気圧に挟まれる位置にあったため、気流が不安定となり、竜巻が起こったらしい。
(略)
今度のはそれほど大きなものでなく、天気図にも載らない程度であるにも拘らず、被害は全国でも稀有のものである。」
竜巻は、下佐野方面の烏川付近で発生し、正六公民館のところにあった薬師堂の屋根を吹き飛ばし、火の見櫓を倒し、旧中山道の松並木をなぎ倒して、浅間山古墳にぶつかって向きを変えたようです。
そして、上正六の家々を破壊して、和田多中、下和田を通り、上信電鉄の車庫の屋根、石灰製造所の屋根などを壊して、やっと衰弱し、市の中央部方面に去ったといいます。(「高崎市史民俗調査報告書第七集」より)
高崎から遥か遠いオホーツクの気圧が影響したこの竜巻ですが、その年の9月18日、大陸では日本軍が関与したとされる南満州鉄道爆破事件が起こります。
そして、翌年5月15日の、いわゆる5.15事件により軍部の力が強くなり、ついに戦争という大竜巻が発生してしまいました。
岡山の竜巻が、そのような大竜巻発生の予兆でないことを、心から祈っています。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
このニュースに接し、思い出したことがあります。
旧中山道松並木の取材をしている時、上正六の須永志嘉夫さんから、昭和六年(1931)にこの辺で大きな竜巻被害があったということを聞いていたのです。
いつかブログに書こうと思いながら、ずっと忘れてしまっていました。
上正六の歴史を几帳面に記録している須永さんでしたが、竜巻のあった時は小学6年生だったそうで、写真や新聞記事はお持ちでありませんでした。
そこで今日、県立前橋文書館へ行って当時の新聞記事のマイクロフィルムを探してきました。
竜巻があったのは、昭和六年六月十二日(金)の午前1時40分頃だったということです。
住家12戸が空中高く捲き上げられ、死者2名重軽傷者10数名とあります。
旧中山道の松並木も、この竜巻で大半が倒潰してしまったのですね。
当時、前橋測候所は次のような見解を示しています。
「この時の日本列島付近には、オホーツク方面の高気圧と、四国土佐灘沖の低気圧、および日本海方面の低気圧が分布していた。
高崎は、これら三つの高低気圧に挟まれる位置にあったため、気流が不安定となり、竜巻が起こったらしい。
(略)
今度のはそれほど大きなものでなく、天気図にも載らない程度であるにも拘らず、被害は全国でも稀有のものである。」
竜巻は、下佐野方面の烏川付近で発生し、正六公民館のところにあった薬師堂の屋根を吹き飛ばし、火の見櫓を倒し、旧中山道の松並木をなぎ倒して、浅間山古墳にぶつかって向きを変えたようです。
そして、上正六の家々を破壊して、和田多中、下和田を通り、上信電鉄の車庫の屋根、石灰製造所の屋根などを壊して、やっと衰弱し、市の中央部方面に去ったといいます。(「高崎市史民俗調査報告書第七集」より)
高崎から遥か遠いオホーツクの気圧が影響したこの竜巻ですが、その年の9月18日、大陸では日本軍が関与したとされる南満州鉄道爆破事件が起こります。
そして、翌年5月15日の、いわゆる5.15事件により軍部の力が強くなり、ついに戦争という大竜巻が発生してしまいました。
岡山の竜巻が、そのような大竜巻発生の予兆でないことを、心から祈っています。