宮元町の東なる
下横町に向雲寺
白龍山の興禅寺
和田の七騎の墓所
下横町に向雲寺
白龍山の興禅寺
和田の七騎の墓所
「下横町」は、江戸時代には新町(あらまち)の一部で「下ノ横町」と言われていたが、明治十年(1877)城主のための栽園であった「前栽町」を併せて新町から分離独立したそうです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)
「向雲寺」については、過去記事をご覧ください。
「興禅寺」についても過去記事があるのですが、「和田の七騎の墓所」とは知りませんでした。
まず「和田の七騎」ですが、七騎と聞いて思い付くのは「矢中七騎」です。
両者は違うのか同じなのか、いくつかの書籍を見てみましたが分かりません。
かくなる上はと、図書館の司書さんにお力を借りることにしました。
すると流石、「上野国郡村誌」に答えがあると教えて頂きました。
明治十六年(1883)頃編纂された「上野国群馬郡邨志 巻十一」(昭和五十六年発行「上野国郡村誌6群馬郡(3)」)の「矢中村」の項に、こうありました。
「 | 天正三年乙亥五月遠州長篠ノ役、和田ノ城主和田右兵衛太夫信業、武田勝頼ノ為ニ鳶巣ヲ守ル、 |
徳川氏ノ将酒井忠次ト戦ヒ大敗して従兵或ハ死シ或ハ創(きずつ)キ、信業殆ト免(まぬが)レス、 | |
信業ノ臣松本九郎兵衛、真下下野、大沢備後、秋山縫殿亮、栗原内記、福島嘉兵衛、長島因幡七騎、苦戦捍護(かんご:防護)僅ニ和田城ニ帰ヲ得ル、 | |
勝頼大ニ感賞シ、退口七本槍ト称シ、又和田七騎ト称ス、其名遠邇(えんじ:遠近)ニ震フ、 | |
信業其戦功ヲ賞シ、矢中村千八百五拾八石五斗余ノ地ヲ七騎ニ賜フ、世因テ矢中七騎ト称スト云フ、 | |
其裔孫今猶村中ニ存スル者アリ」 |
なるほど、傷ついた和田信業(業繁?)を退却させるために踏みとどまって戦ったので「退口七本槍」、あるいは「和田七騎」と呼んだのが武田勝頼で、褒美として矢中村の土地を与えたので、世の人達は「矢中七騎」と呼んだという訳ですか。
「矢中七騎」の何人かの屋敷跡は、調査・推定されています。
大沢備後の屋敷跡には、「大澤備後守定吉誕生屋敷跡」碑というのも建っています。
そして「矢中七騎」の墓については、「群馬郡西部村志 巻八」(「上野国郡村誌5 群馬郡(5)」)の「興禅寺」の項に記載がありました。
「 | 境内墓地ニ和田氏及ヒ同旗下七騎ノ墓ト称フル五輪塔数基アリ、文字剥落シテ見ヘカラス」 |
その見えからぬ文字を読もうとした人が土屋補三郎(老平)です。
明治十五年(1882)に著した「更正高崎旧事記 四巻」の「下横町 興禅寺」の項に、こう書いています。
「 | 老平云、当寺三昧所和田氏ノ古墳石塔アリト里老口牌ニモ云伝フ。 |
予是レガ石塔ニ文字アリ磨滅シ読得ルアタハズ。サレドモ文字ノ形チ有リ、古苔ヲ払ヒ水モテ洗ヒミルニ其文字石塔下台ニアリ | |
前住当山 桂堂和尚 宝徳三年 三月念三日 | |
☐☐三☐ ☐☐☐☐ 時永禄☐☐ 八月廿三日 | |
叟妙☐大 ☐☐☐☐ 時天正三年 十月九日 | |
石塔七基ノ内三基ノ文字如此 桂堂和尚ハ東谷院主ニテ 他二基ハ年号ノミヨク顕レタリ。 | |
扨(さて)其年月日ニテモ其某ヲ知ラント欲スルニ由ナシ。 | |
然レハ和田氏族ノ墳墓ト一向ニ言テ止ベキ歟(か)。」 |
最後の一節はよく分かりません。「和田氏族の墓だと言われれば仕方ないか。」ということなのでしょうか。
その石塔は興禅寺の「三昧所」(さんまいしょ)にあると書いてあります。
「三昧所」というのは、死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂のことだそうです。
「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にその場所が書いてありました。
「地蔵堂 和田七騎卵塔」 | ||
地蔵堂ハ出端ノ木戸外ノ左ニアリ、興禅寺ノ三昧場也、堂ハ八間ニ三間、瓦葺、本尊地蔵ノ木像ヲ安ズ、享保十三年建立ト云リ、 | ||
堂ノ西ニ墓所アリ、和田氏及臣下七騎ノ墓トテ古キ五輪アリ、文字見ヘス |
というので、興禅寺の「地蔵堂」へ行ってみましたが、それらしいものはありません。
興禅寺の墓地は全て「八幡霊園」へ移されているので、そっちにあるのかと思って行ってみました。
が、どれがそうなのかよく分かりません。
そしたら、昭和二年(1927)発行の「高崎市史下巻」の興禅寺の項に、こんな記述があるじゃありませんか。
「 | 高崎志其他ニ和田七騎ノ墓アリト云フモ今日ハ全クナシ」 |
下之城の「徳昌寺」には、「和田一族の墓」と伝わるのはあるんですけどね。
ないのかなぁ、「七騎」の墓。