十五連隊戍衛(じゅえい)地は
松風清き高松町
昔ゆかしき城跡に
朝夕聞ゆラッパの声(ね)
松風清き高松町
昔ゆかしき城跡に
朝夕聞ゆラッパの声(ね)
「戍衛」の「戍」は「武器を持って国境をまもる兵。また、屯(たむろ)=守備兵の詰めている所」のこと。
「衛」は「城や門を守る人・組織」のことで、軍隊が駐屯する土地を「戍衛地」あるいは「衛戍地」というようです。
高崎城跡が軍隊の戍衛地になったのは、根岸省三氏著「高崎の明治百年史」によると明治六年(1873)説と明治八年(1875)説があるようですが、フランス人医師ヴィダルの旅行記「江戸から新潟への旅」に、明治六年に高崎城内でフランス式の訓練をしている軍人の一団のことが書かれていますので、六年説が正しいのでしょう。
その頃の、まだ高崎城天守閣「御三階櫓」が残っている営内の写真です。
営内に駐屯する軍隊の呼称は度々変わるのですが、馴染みのある「十五連隊」という呼称はいつから始まったのかというと、明治十七年(1884)でした。
正式名称は「陸軍歩兵第十五連隊」です。
当時の兵員数は下士50人、兵卒306人とあります。
明治二十三年(1890)には1,449人に増えていますが、長野県出身の人が多かったんですね。
「十五連隊」は後の日清・日露戦争で乃木将軍の指揮下に入りますが、「高崎の明治百年史」にこんなことが書かれています。
「 | 高崎連隊と乃木希典将軍との関係はなかなかに深く、将軍は始めて高崎に兵営が設けられ高崎鎮台の分隊と称せられた明治十七年頃(?)に来任し、高崎市高砂町の某家に下宿しておられ、また日露戦役の際には、将軍の令息勝典、保典の両名が高崎連隊付として出征し、旅順港激戦で戦死されている。」 |
現在「乾櫓」が建っている右側が、兵営の「正門」でした。
「正門」は初め高崎城の「大手門(追手門)」の場所(下図3⃣)でしたが、営内が見通せてしまうというので少し南へ移動させたようです。(下図4⃣が「乾櫓」)
石垣の上に立派な松の木があり、その根方には「飛龍松之記」という石碑が建っています。
碑にはこう刻まれています。
飛龍松之記 | ||
明治二十六年秋於髙﨑近郊 有近衞師團小機動演習之擧 天皇陛下親臨閲之 後行觀兵式於此地 干時十月二十二日也 於是植一松樹以標駐驛之跡 傳之永遠号曰飛龍松 |
||
歩兵第十五聯隊長 | ||
河野通好撰併書 |
と言うのですが、ここに立つ松の木はどうやら「飛龍松」ではないらしいのです。
「高崎の明治百年史」に、こうあります。
「 | (飛龍松)の位置は第三大隊の前庭で(現第二中学校と、裁判所との堺のあたり)ここに後年碑が建てられた。 |
この碑は現在は、連隊跡の解放によって、連隊の外堀の土堤、旧営門右側のその上に移されていて、そこに古来からある大松があり、あたかもその松が飛龍の松の如き感じを与えるが、飛龍の松は既に枯れてない。」 |
ということで、本当の「飛龍松」はここにあったようです。
今ある松は正しくは「大手の松」と言うそうです。
でも、ま、いいでしょう、「飛龍松」で。
旧高崎城内は明治十年(1877)「高松町」と定められました。
町名の由来について、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「有名ナル露ノ松ヲ記念センタメ命ゼシナリ」となっています。
「露の松」というのは、城内にあった不思議な松の木のことで、寛政元年(1789)川野辺寛著「高崎志」にこう書かれています。
「 | 梅雨(露)松ハ 二(ノ)丸北方ノ土居上ニアリ 古木ニシテ枝ヲ垂ル 入梅節ニ至レバ其葉黄ニ變シテ枯ルガ如シ 出梅ニ及テ靑葱(せいそう:青々と茂ること)ニ復(もど)ル 故ニ土俗梅雨松ト名ツク」 |
面白い話ですが、いつ枯れるか分からないような松の木を町名の由来とするというのも、どうなんでしょう。
現に「高崎市史」にも「明治ノ初年全ク枯死ス」と書いてあるんですから。
「高崎市史」よりずっと前、明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)には、こう書かれています。
「 | 高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。 |
又松ハ松平氏ノ領セシ城ノ名残アリテ、是モ由アルナリ。(略) | |
往古当地ヲ松ガ崎ト称セシ旨伝承アリ、且高崎ノ高ノ一字ヲ取、高松町と号クル也。」 |
「もてなし広場」の北西角に、もう一つ「十五連隊」に関する松があります。
昭和九年(1934)の陸軍大演習に於いて、天皇陛下が営内で講評したのを記念して植えた松で、「振武松」というんだそうです。
昭和四十三年(1968)に建てられた「十五連隊」の顕彰碑が、音楽センター前広場にあります。
「明治百年」の記念として建てられたものらしく、「十五連隊」の戦歴がズラズラと刻まれています。
もうひとつ、昭和五十一年(1976)に建てられた「歩兵第十五聯隊趾」碑もあります。
その根元の「趾碑之由来」碑にも、「顕彰碑」よりもさらに詳しい戦歴が刻まれていますが、その末尾に刻まれている言葉が心を打ちます。
「 | 憶えば 此の地に兵営が創設されて七十二星霜 この間練武の貔貅(ひきゅう:勇ましい兵)三十数万 華と散った英霊実に五万二千余柱の多きを算(かぞ)え 寔(まこと)に痛恨の極みである |
茲に県内外の関係者相寄り相議(はか)り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜(ぼく:良し悪しを判断)し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求(ききゅう:強く願い求める)し祈念する」 |
私も、心から冀求、祈念します。