ごぞんじでしたか?矢中町にある「ゴロゴロ山」。
実は、8年前に記事にしてました。 → ◇「ゴロゴロ山」
看板の後半に出てくる「馬頭観世音」の石碑は、「ゴロゴロ山」から100mほど西にあります。
「ゴロゴロ山」の北120mほどの所には、もう一つの史跡看板「御嶽山大神」があります。
ところがこの看板、間違いの多さにびっくりです。
まず「御嶽山」は、「おんたけやま」でなく「おんたけさん」と読むのが一般的だと思いますが、どうなのでしょう。
仮名のふり間違いと誤字も目立ちます。
「国常立尊(くにとこたちのみこと)」が「こくとこたてのみこと」、
「大己貴命(おおなむちのみこと)」が「おおきむちのみこと」、
「普寛行者」が「普覚行者」。
これは、いささか多過ぎませんか。
些細なことではありますが、史跡看板の信頼性を疑われかねませんので、掲示する前に充分なチェックをお願いしたいところです。
矢中町の史跡看板はこの二つしか建っていませんが、この地域はけっこう面白いところなんです。
ブログ駆け出しの頃、土屋喜英氏著「高崎漫歩」を読んで、この辺を徘徊したことがあります。 → ◇七曲りの小豆とぎ
矢中は古い歴史を持つ地域で、中世には、「矢中七騎」と呼ばれた倉賀野氏の寄騎(よりき)が住んでいた土地です。
長篠の戦があった天正三年(1575)には和田氏に属し、酒井軍の急襲を受けた鳶ヶ巣山砦の武田信豊を救援に向かい、鉄砲に撃たれて重傷を負った和田業繁等を退却させるため、退き口に踏みとどまって敵を防ぐという、めざましい働きをしたといわれます。
「矢中七騎」のひとり、大澤備後守定吉の誕生屋敷跡という石碑が建っています。
「矢中七騎」とは、大澤備後と、福島嘉兵衛、真下下野、栗原内記、松本九郎兵衛、秋山縫殿亮、長島因幡の七氏で、その屋敷跡のいくつかは発掘・推定されています。
矢中中学校建設地からは、天仁元年(1108)の浅間山大爆発による軽石層の下から、銅製の「物部私印」が発掘されています。
さらに時代を遡る正始元年(240)という銘が入った「三角縁神獣鏡」も、柴崎町の「蟹沢古墳跡」から発掘されています。
史跡看板をもっと設置してもよいと思う、矢中町でした。
実は、8年前に記事にしてました。 → ◇「ゴロゴロ山」
看板の後半に出てくる「馬頭観世音」の石碑は、「ゴロゴロ山」から100mほど西にあります。
「ゴロゴロ山」の北120mほどの所には、もう一つの史跡看板「御嶽山大神」があります。
ところがこの看板、間違いの多さにびっくりです。
まず「御嶽山」は、「おんたけやま」でなく「おんたけさん」と読むのが一般的だと思いますが、どうなのでしょう。
仮名のふり間違いと誤字も目立ちます。
「国常立尊(くにとこたちのみこと)」が「こくとこたてのみこと」、
「大己貴命(おおなむちのみこと)」が「おおきむちのみこと」、
「普寛行者」が「普覚行者」。
これは、いささか多過ぎませんか。
些細なことではありますが、史跡看板の信頼性を疑われかねませんので、掲示する前に充分なチェックをお願いしたいところです。
矢中町の史跡看板はこの二つしか建っていませんが、この地域はけっこう面白いところなんです。
ブログ駆け出しの頃、土屋喜英氏著「高崎漫歩」を読んで、この辺を徘徊したことがあります。 → ◇七曲りの小豆とぎ
矢中は古い歴史を持つ地域で、中世には、「矢中七騎」と呼ばれた倉賀野氏の寄騎(よりき)が住んでいた土地です。
長篠の戦があった天正三年(1575)には和田氏に属し、酒井軍の急襲を受けた鳶ヶ巣山砦の武田信豊を救援に向かい、鉄砲に撃たれて重傷を負った和田業繁等を退却させるため、退き口に踏みとどまって敵を防ぐという、めざましい働きをしたといわれます。
(新編高崎市史 資料編3)
「矢中七騎」のひとり、大澤備後守定吉の誕生屋敷跡という石碑が建っています。
「矢中七騎」とは、大澤備後と、福島嘉兵衛、真下下野、栗原内記、松本九郎兵衛、秋山縫殿亮、長島因幡の七氏で、その屋敷跡のいくつかは発掘・推定されています。
矢中中学校建設地からは、天仁元年(1108)の浅間山大爆発による軽石層の下から、銅製の「物部私印」が発掘されています。
さらに時代を遡る正始元年(240)という銘が入った「三角縁神獣鏡」も、柴崎町の「蟹沢古墳跡」から発掘されています。
史跡看板をもっと設置してもよいと思う、矢中町でした。
【ゴロゴロ山・御嶽山大神】
【大澤備後守定吉誕生屋敷跡碑】
【蟹沢古墳跡】