「ハープの泉」からシンフォニーロードを東に行き、最初の信号を右に曲がって150mほど行くと、下横町の「向雲寺」参道前に出ます。
史跡看板は、山門前に建っています。
史跡看板の文中で馴染みの薄いのは、最後の方に書かれている「大行満願海上人」(だいぎょうまん・がんかい・しょうにん)でしょう。
「大行満」とは比叡山千日回峰の修業を成し遂げた人の称号であり、「願海上人」とはその大行満となった高崎出身の僧の名です。
今でこそ、「高崎新聞」に「高崎名僧列伝 大行満の称号を得た願海」という記事もあり、知ってる人は知ってる人物ですが、大正末まで高崎では全くと言っていいほど知られていませんでした。
高崎で願海のことが知られるようになったのは、大正十四年(1925)発行の「上毛及上毛人 99号」に、名古屋の樋口晩翠氏が寄せた一文からでした。
そして、願海の略歴・事跡が短く綴られています。
この一文を読んだ高崎の郷土史家・山内留彌氏は、同誌103号でこう述懐しています。
山内氏は、たまたま佐野村大字下中居村の普門寺に隠栖していた元向雲寺住職・山内謙介師を訪ねた折に、向雲寺が願海の菩提寺であることを知ることになります。
ということで、その後、山内氏をはじめ高崎の郷土史を研究している方々により、徐々に願海のことが分かるようになってきます。
中でも、向雲寺のある下横町に住み高崎市議会議員であった清水粂蔵氏は、その事跡を顕彰すべく「大行満願海宣揚会」を立ち上げ、熱心に調査・研究を重ね、昭和九年(1934)その集大成ともいえる冊子「大行満願海」を発行しています。
向雲寺には、願海の両親・本見林兵衛夫妻の墓があります。
冊子が発行された頃は、墓石の傍らに「大行満願海祖先之墓」という標柱が建っていたようですが、現在はないのでなかなか見つけることが出来ず、ご住職にご足労願って教えて頂きました。
また、昭和十一年(1936)には、清水氏等の働きかけにより、比良葛川にある願海の墓地から分骨をして、両親の墓側に埋葬されたということです。(上毛及上毛人225号)
願海は、孝明天皇や当時二歳の皇子・祐宮(さちのみや・明治天皇)の加持祈禱を行い、各地で勤王思想を普及させていたこともあり、「勤王僧」などと呼ばれています。
その勤王僧・願海の骨が眠る墓の斜向かいに、高崎の「清香庵」という鰻料理屋の店主でやはり勤王思想の持ち主であった、田島尋枝の墓があるというのも、奇しき因縁のように思われます。
叡山に於ける願海は容貌威厳深刻で近づき難いところもあり、回峰行の修験中に戒めのため大数珠で従者たちを打ったりしたこともあったといいます。
それでも従者たちはそれを怨みとも思わず、以前にも増して親しんでいったと伝わるほど、尊敬されていたようです。
願海は、安政五年(1858)東叡山輪王寺宮の推挙で、紀州粉河寺(こかわでら)の住職となります。
ところが、尊王攘夷派の浪士に追われていた絵師・冷泉為恭(れいぜい・ためちか)を匿ったことがきっかけで、願海自身も浪士に追われる身となり、各地を遍歴したのち江州(近江)葛川に草庵「渓草蘆」を結び、その庵で明治六年(1873)五十一歳の生涯を終えます。
「渓草蘆」での寂しい暮らしぶりを示す逸話が、清水粂蔵氏著「大行満願海」に載っています。
今はまた、願海の名も忘れられようとしていますが、この史跡看板設置を機に、多くの高崎市民に知られることを願います。
史跡看板は、山門前に建っています。
史跡看板の文中で馴染みの薄いのは、最後の方に書かれている「大行満願海上人」(だいぎょうまん・がんかい・しょうにん)でしょう。
「大行満」とは比叡山千日回峰の修業を成し遂げた人の称号であり、「願海上人」とはその大行満となった高崎出身の僧の名です。
今でこそ、「高崎新聞」に「高崎名僧列伝 大行満の称号を得た願海」という記事もあり、知ってる人は知ってる人物ですが、大正末まで高崎では全くと言っていいほど知られていませんでした。
高崎で願海のことが知られるようになったのは、大正十四年(1925)発行の「上毛及上毛人 99号」に、名古屋の樋口晩翠氏が寄せた一文からでした。
「 | 大行滿願海の出生に就ては、今日まで明瞭を缼(か)いて居た。 |
尤も其の書き遺されたものゝ言葉遣ひなどより見て、東國方面の出生なるべしとは豫想して居たのであった。 | |
其後「葛川寺過去帳」に依って、願海の姪が上州倉賀野に居たこと、及び上州高崎にも縁者の有ったことを知って、稍(やや)其の出生に見當がついたのであるが、今だ以てその何れなるかを定むべき確證を得なかったのである。」 |
この一文を読んだ高崎の郷土史家・山内留彌氏は、同誌103号でこう述懐しています。
「 | 本紙九十九號に樋口晩翠先生の大行滿願海の御發表あり、近頃同人は高崎の出身にして姪は倉賀野町に在りしとの事が分かったと。 かゝる名僧の本市に在りし事はお恥ずかしいが全く知らなんだ。遥か名古屋からのご研究、聊(いささ)か鼻毛を抜かれた感があった。」 |
山内氏は、たまたま佐野村大字下中居村の普門寺に隠栖していた元向雲寺住職・山内謙介師を訪ねた折に、向雲寺が願海の菩提寺であることを知ることになります。
「 | 扨(さ)てこれから願海の代々向雲寺が菩提所である事が知れたから尋ねた處、これは又驚くことには、願海は拙者の住所とは十數歩を距てた鍛冶町出身であらんとは。 益々自分の迂闊さにあきれかへらざるを得ない。 |
和尚徐(おもむろ)に曰く、願海、本姓は本見氏、父母は煙草商である。 今日は子孫も絶へてない。」 |
ということで、その後、山内氏をはじめ高崎の郷土史を研究している方々により、徐々に願海のことが分かるようになってきます。
中でも、向雲寺のある下横町に住み高崎市議会議員であった清水粂蔵氏は、その事跡を顕彰すべく「大行満願海宣揚会」を立ち上げ、熱心に調査・研究を重ね、昭和九年(1934)その集大成ともいえる冊子「大行満願海」を発行しています。
向雲寺には、願海の両親・本見林兵衛夫妻の墓があります。
冊子が発行された頃は、墓石の傍らに「大行満願海祖先之墓」という標柱が建っていたようですが、現在はないのでなかなか見つけることが出来ず、ご住職にご足労願って教えて頂きました。
また、昭和十一年(1936)には、清水氏等の働きかけにより、比良葛川にある願海の墓地から分骨をして、両親の墓側に埋葬されたということです。(上毛及上毛人225号)
願海は、孝明天皇や当時二歳の皇子・祐宮(さちのみや・明治天皇)の加持祈禱を行い、各地で勤王思想を普及させていたこともあり、「勤王僧」などと呼ばれています。
その勤王僧・願海の骨が眠る墓の斜向かいに、高崎の「清香庵」という鰻料理屋の店主でやはり勤王思想の持ち主であった、田島尋枝の墓があるというのも、奇しき因縁のように思われます。
叡山に於ける願海は容貌威厳深刻で近づき難いところもあり、回峰行の修験中に戒めのため大数珠で従者たちを打ったりしたこともあったといいます。
それでも従者たちはそれを怨みとも思わず、以前にも増して親しんでいったと伝わるほど、尊敬されていたようです。
願海は、安政五年(1858)東叡山輪王寺宮の推挙で、紀州粉河寺(こかわでら)の住職となります。
ところが、尊王攘夷派の浪士に追われていた絵師・冷泉為恭(れいぜい・ためちか)を匿ったことがきっかけで、願海自身も浪士に追われる身となり、各地を遍歴したのち江州(近江)葛川に草庵「渓草蘆」を結び、その庵で明治六年(1873)五十一歳の生涯を終えます。
「渓草蘆」での寂しい暮らしぶりを示す逸話が、清水粂蔵氏著「大行満願海」に載っています。
「 | 願海が葛川の草庵に籠っていた時、誰れ訪れる人もなく只藤八といふ村の者に用聞きさしてゐた。 |
竿の先へ木の札を吊るしたものを備へて置き、用事のある時は此れを立てゝ目標(めじるし)とした。 | |
藤八は毎日其庵の傍を通って炭焼きに行ってゐたので、其竿が目につくと立寄って用を辨ずることにしてゐたと云ふ。」 |
今はまた、願海の名も忘れられようとしていますが、この史跡看板設置を機に、多くの高崎市民に知られることを願います。
【向雲寺史跡看板】