「金古南足門(かねこ・みなみ・あしかど)公民館」の入口に、「足門の百庚申」があります。
「百庚申」といっても、百基建っている訳ではなくて。
一基に、多数の「庚申」という文字が刻まれているということです。
「栗崎町の諏訪神社」にも、このタイプの「百庚申塔」がありました。
また「足門の百庚申塔」には、「青面王」(しょうめんおう)と刻まれています。
「青面王」については、まだブログ駆け出しの頃、たいへん手こずったことがあります。
「旧三国街道の三ツ寺」でのことです。
なお、なぜ「青い面の王」なのか、「庚申」とどういう関係なのかについては、「綿貫町の正面金剛」の記事をご参照ください。
史跡看板に、「この庚申様は三国街道沿いにあったが、平成元年にこの場所に移した」とあります。
その辺の経緯が、「由来」という石碑に刻まれていました。
この道しるべも、その時、移されたのかも知れませんね。
旧群馬町は、史跡を大切にしていたことがよく分かります。
高崎市と合併したことにより、その精神が失われないことを祈るばかりです。
「百庚申」といっても、百基建っている訳ではなくて。
一基に、多数の「庚申」という文字が刻まれているということです。
「栗崎町の諏訪神社」にも、このタイプの「百庚申塔」がありました。
また「足門の百庚申塔」には、「青面王」(しょうめんおう)と刻まれています。
「青面王」については、まだブログ駆け出しの頃、たいへん手こずったことがあります。
「旧三国街道の三ツ寺」でのことです。
なお、なぜ「青い面の王」なのか、「庚申」とどういう関係なのかについては、「綿貫町の正面金剛」の記事をご参照ください。
史跡看板に、「この庚申様は三国街道沿いにあったが、平成元年にこの場所に移した」とあります。
その辺の経緯が、「由来」という石碑に刻まれていました。
この道しるべも、その時、移されたのかも知れませんね。
旧群馬町は、史跡を大切にしていたことがよく分かります。
高崎市と合併したことにより、その精神が失われないことを祈るばかりです。
【足門の百庚申塔】