前回、「倉賀野河岸」の「帳場跡」から「牛街道」を通って中山道まで出てきましたが、今回は逆に辿って、「井戸八幡宮」の史跡看板を見に行きましょう。
8年前に書いた記事がありますのでご覧ください。
史跡看板は、「井戸八幡宮」の井戸の右脇に建っています。
「倉賀野城」との位置関係はこのようになるらしいです。
道に戻って川岸に向かい、川に沿って共栄橋方向に行くと、左手に高い石垣が出てきます。
この石垣の上には、かつて「倉賀野河岸」の守護神社ともいえる「大杉神社」がありました。
明治十七年(1884)に上野ー高崎間に鉄道が通ると、繫栄を極めた「倉賀野河岸」も衰退し、明治四十年(1907)「大杉神社」は廃社となります。
現在そこは個人のお宅になっていますが、敷地の一部が提供されて「大杉神社跡碑」が建てられています。
碑背にはこのように刻まれています。
碑文にある「田屋町八幡神社」というのが、「井戸八幡宮」です。
神様の居なくなった社殿はどうなったかというと、桃井村字新井(現北群馬郡榛東村新井)へ売り払われ、そこで今も現存しています。
その「新井八幡宮」へ行ってみました。
夏になるとホタルが飛び交うので有名な神社です。
ホタル池の方から入っていくと社殿の裏側に出ますが、ここがかつての「大杉神社」社殿を見るベストアングルでしょう。
実に立派な社殿ですが、その移築にまつわる秘話が前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」に載っています。
まったく、まったく、その通り。
8年前に書いた記事がありますのでご覧ください。
史跡看板は、「井戸八幡宮」の井戸の右脇に建っています。
「倉賀野城」との位置関係はこのようになるらしいです。
道に戻って川岸に向かい、川に沿って共栄橋方向に行くと、左手に高い石垣が出てきます。
この石垣の上には、かつて「倉賀野河岸」の守護神社ともいえる「大杉神社」がありました。
明治十七年(1884)に上野ー高崎間に鉄道が通ると、繫栄を極めた「倉賀野河岸」も衰退し、明治四十年(1907)「大杉神社」は廃社となります。
現在そこは個人のお宅になっていますが、敷地の一部が提供されて「大杉神社跡碑」が建てられています。
碑背にはこのように刻まれています。
「 | 江戸時代、倉賀野河岸は利根川水運の最上流に位置し、物流の要衝として賑い栄えた。 |
常州阿波大杉神社から勧請、水難除けの神様として問屋や船頭たちの篤い信仰を集めたのが、この地の大杉神社である。 | |
やがて明治に至り鉄道開通とともに河岸は衰退し、折から神社合祀礼を受けて明治四十年に廃社となり、御祭神は田屋町八幡神社に合祀された。 | |
茲に歴史の跡を顕彰し後世に伝えんと記念の碑を建立するものである。」 | |
平成十年一月吉日 |
碑文にある「田屋町八幡神社」というのが、「井戸八幡宮」です。
神様の居なくなった社殿はどうなったかというと、桃井村字新井(現北群馬郡榛東村新井)へ売り払われ、そこで今も現存しています。
その「新井八幡宮」へ行ってみました。
夏になるとホタルが飛び交うので有名な神社です。
ホタル池の方から入っていくと社殿の裏側に出ますが、ここがかつての「大杉神社」社殿を見るベストアングルでしょう。
実に立派な社殿ですが、その移築にまつわる秘話が前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」に載っています。
「 | 桃井村で大杉神社を買いとったときは、鎮守の八幡社殿が火災で焼失し、丁度その時が明治四十二年の神社合併の時であったので各地で神社の売り物が出たため、これでは新しく作るより空社を買えと言うことになり、随分諸所方々見て廻り、沢山見た内で倉賀野の大杉社殿と決められた訳で、解体の時来た現在八十八歳の老人が一人生存しているが、この人が二十歳の時であったという。 |
解体の時、宮大工三名が来て解いたのであるが、初めの内は符号を付けていたが終いには余り沢山の細工で面倒になり、幾日もかゝってバラで持って行ったが、さアーそれから現地で組み立てるのが大変で、その為すっかり出来上がるのに買金の十倍、弐千参百円かゝったと言はれ村中青くなった。 | |
ところが何か残った彫刻の一部を取付けるのを止めて専門家に見せて売ったら、弐千参百円になったので売金から費用一切が出たと言って村中大喜びをしたと言う。 | |
倉賀野河岸は大変な財物を二束三文で売り払ったことになる。 | |
かえすがえす無念であるが今となっては如何ともなし難く、せめて現存しているということ丈で諦めねばならないだろう。」 |
まったく、まったく、その通り。
【井戸八幡宮史跡看板】
【新井八幡宮】