「井戸八幡宮」から烏川沿いに西へ100mほど行くと、「雁(かりがね)児童公園」の裏口(?)に出ます。
川からの風が心地よい藤棚の下では、倉賀野が生んだ夭折の天才画家・山田かまちも、思索のひとときを過ごしていたようです。
その藤棚の向こうに、大きな「倉賀野城趾」碑が建っています。
この場所は、「倉賀野城」の本丸跡にあたります。
本丸の崖下では、烏川が大きく流れの向きを変えて深い淵になっており、舟運盛んな頃には難所になっていたようです。
ところが、ある男が「俺がそこを通って見せよう。」と言って船を出しました。
いつものように出てきた大きな手に、男は底を抜いた柄杓を渡したのです。
史跡看板は、公園の正門(?)に建っています。
元から建っている立派な看板も、健在です。
石碑も含めて3つの史跡看板・・・。
ひとつくらい、伝説を伝える看板にしてもよかったのでは。
川からの風が心地よい藤棚の下では、倉賀野が生んだ夭折の天才画家・山田かまちも、思索のひとときを過ごしていたようです。
その藤棚の向こうに、大きな「倉賀野城趾」碑が建っています。
この場所は、「倉賀野城」の本丸跡にあたります。
本丸の崖下では、烏川が大きく流れの向きを変えて深い淵になっており、舟運盛んな頃には難所になっていたようです。
「水難よけの柄杓」(伝説之倉賀野) | ||
「 | 佐野から烏川が倉賀野の方へ廻り込む所を萬福寺と言ひます。 その萬福寺には昔大きな寺がありました。その寺の名が何時か土地の名となったのでせう。 |
|
その萬福寺の下は烏川の水が曲がり込んでとうとうと流れ、それが又深く淀んで物凄い底知れぬ靑さをたゝへてゐました。 | ||
こゝを通りかゝる船は時々其の波に吞まれて沈みました。 ところが此の船が沈むに就いては不思議な事が有りました。 |
「 | 丁度船が此の寺の下へ差しかゝると、何處からともなくボシャンボシャンと言ふ音がして來ます。 |
其の中からぬうっと、大きな手が出ます。そして不氣味な聲を出して『ひしゃくをくれ、ひしゃくをくれ』と言ひます。 |
「 | そして船頭が柄杓を與(あた)へると、それを受取るやすっと水の中へ姿を消してしまひます。 |
「 | やがて船が深く淀んだ淵に差しかゝると、又しても何處からともなくボシャンボシャンと水音がして、遂には船をも吞んでしまひます。 柄杓を與へない時には大きな手で船端を持って船を覆してしまひます。 |
かうした事件が次から次へと起りましたので、船頭達は魔の淵と呼んで其處を通るのを避けました。」 |
ところが、ある男が「俺がそこを通って見せよう。」と言って船を出しました。
いつものように出てきた大きな手に、男は底を抜いた柄杓を渡したのです。
「 | やがて船が淵にかゝると果たして『ボシャンボシャン』と言ふ音が聞こえて來ましたが、不思議なことに唯飛沫が飛ぶだけでした。 船は無事に淵を通る事が出來ました。 |
安否如何にと噂とりどりに待ち構へて居た人々は、今無事に歸って來たのを見て非常に驚きました。 | |
其の後、此の淵を通る人は必ず底抜け柄杓を持ってゆき、淵へなげ込む様になったのです。」 |
史跡看板は、公園の正門(?)に建っています。
元から建っている立派な看板も、健在です。
石碑も含めて3つの史跡看板・・・。
ひとつくらい、伝説を伝える看板にしてもよかったのでは。
【倉賀野城跡史跡看板】