2009年04月14日

牛街道と井戸八幡

牛街道と井戸八幡倉賀野町「牛街道」と呼ばれていた道がある。

「伝説の樅(もみ)の木」で紹介した高札場跡の向かいの細い道である。
高札場のある所には、倉賀野宿時代、問屋を営んでいた須賀家があった。

「牛街道」は、倉賀野宿の問屋と、倉賀野河岸をつなぐ重要な道だった。
だが、それにしては、やけに細く、やたらに曲がり曲がった道である。
それは、この道がもとは倉賀野城の堀だったからである。
道が細いので、馬は牛を追い越せず、イライラして他の道を通ったというので、「牛街道」になったらしい。

牛街道と井戸八幡「牛街道」を烏川に向かって河畔近くまで進むと、右側に「井戸八幡」がある。

ずーっと奥に見える神社が「八幡宮」の社殿であるが、「井戸八幡」の井戸は、実は手前の小さな社の下にある。

井戸の上に社を建てて、その中に御神輿を格納している。

牛街道と井戸八幡八幡宮の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑があり、「井戸八幡」の由来が書かれている。

因みに、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうである。

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正保三年(1646)、田口長右衛門辰政という人の夢の中に、ひと番いの鳩が現れてお告げをする。
お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに一夜にして井戸が出現していた。
井戸からは冷水が溢れ、光り輝く井戸の中には、八幡大神が現われていたという。
以来、里人は「井戸八幡」と呼んで、尊び、信仰した。
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牛街道と井戸八幡八幡宮の境内には、もうひとつ面白い石碑が建っている。

「倉賀野河岸」という題名の歌碑である。

よくよく、倉賀野という町には音楽好きな人が多いらしい。

牛の背に荷駄を載せ、のんびりと歌いながら「牛街道」を行き来する人の姿が、瞼に浮かぶようである。

【井戸八幡】


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Posted by 迷道院高崎 at 23:16
Comments(2)倉賀野
この記事へのコメント
倉賀野って、まだまだ探せば観光資源が出てきそうですね。
「歌の宿場町 倉賀野」なんて言ったりして・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年04月15日 07:21
>弥乃助さん

「歌の宿場町 倉賀野」ですか。
うん、いいですね。

倉賀野は、今ならまだ観光町おこしが可能ですね。
ここから、中山道を観光ロードにして高崎までつなげれば、一大歴史テーマパークにすることもできそうな気がします。

そんな発想のできるリーダーが出現してくれないかなぁ・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年04月15日 10:03
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牛街道と井戸八幡
    コメント(2)