倉賀野町に「牛街道」と呼ばれていた道がある。
「伝説の樅(もみ)の木」で紹介した高札場跡の向かいの細い道である。
高札場のある所には、倉賀野宿時代、問屋を営んでいた須賀家があった。
「牛街道」は、倉賀野宿の問屋と、倉賀野河岸をつなぐ重要な道だった。
だが、それにしては、やけに細く、やたらに曲がり曲がった道である。
それは、この道がもとは倉賀野城の堀だったからである。
道が細いので、馬は牛を追い越せず、イライラして他の道を通ったというので、「牛街道」になったらしい。
「牛街道」を烏川に向かって河畔近くまで進むと、右側に「井戸八幡」がある。
ずーっと奥に見える神社が「八幡宮」の社殿であるが、「井戸八幡」の井戸は、実は手前の小さな社の下にある。
井戸の上に社を建てて、その中に御神輿を格納している。
八幡宮の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑があり、「井戸八幡」の由来が書かれている。
因みに、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうである。
お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに一夜にして井戸が出現していた。
井戸からは冷水が溢れ、光り輝く井戸の中には、八幡大神が現われていたという。
以来、里人は「井戸八幡」と呼んで、尊び、信仰した。
八幡宮の境内には、もうひとつ面白い石碑が建っている。
「倉賀野河岸」という題名の歌碑である。
よくよく、倉賀野という町には音楽好きな人が多いらしい。
牛の背に荷駄を載せ、のんびりと歌いながら「牛街道」を行き来する人の姿が、瞼に浮かぶようである。
「伝説の樅(もみ)の木」で紹介した高札場跡の向かいの細い道である。
高札場のある所には、倉賀野宿時代、問屋を営んでいた須賀家があった。
「牛街道」は、倉賀野宿の問屋と、倉賀野河岸をつなぐ重要な道だった。
だが、それにしては、やけに細く、やたらに曲がり曲がった道である。
それは、この道がもとは倉賀野城の堀だったからである。
道が細いので、馬は牛を追い越せず、イライラして他の道を通ったというので、「牛街道」になったらしい。
「牛街道」を烏川に向かって河畔近くまで進むと、右側に「井戸八幡」がある。
ずーっと奥に見える神社が「八幡宮」の社殿であるが、「井戸八幡」の井戸は、実は手前の小さな社の下にある。
井戸の上に社を建てて、その中に御神輿を格納している。
八幡宮の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑があり、「井戸八幡」の由来が書かれている。
因みに、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうである。
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正保三年(1646)、田口長右衛門辰政という人の夢の中に、ひと番いの鳩が現れてお告げをする。お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに一夜にして井戸が出現していた。
井戸からは冷水が溢れ、光り輝く井戸の中には、八幡大神が現われていたという。
以来、里人は「井戸八幡」と呼んで、尊び、信仰した。
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八幡宮の境内には、もうひとつ面白い石碑が建っている。
「倉賀野河岸」という題名の歌碑である。
よくよく、倉賀野という町には音楽好きな人が多いらしい。
牛の背に荷駄を載せ、のんびりと歌いながら「牛街道」を行き来する人の姿が、瞼に浮かぶようである。
【井戸八幡】