「倉賀野宿本陣跡」の「ベイシアマート」東の道を、「馬街道」と呼んでいたようです。
また、この道の先に「井戸八幡宮」があるので、「高崎宿・倉賀野宿往還絵図面」では「八幡道」となっていて、道の入口には鳥居が描かれています。
大きな鳥居だったので人々は「大門」(だいもん)と呼び、この辺一帯は、町名の「田屋町」よりも「大門」と言う方が通りがよかったそうです。
鳥居は安政三年(1856)の大火で焼けてしまいましたが、その礎石は昭和十年(1935)頃まで残っていたといいます。
そして、「倉賀野河岸」への道でもあるので「河岸道」とも呼ばれました。
中山道から250mほど進むと、右側に「井戸八幡宮」、そのすぐ先、左側の石垣の脇に史跡看板は建っています。
看板に掲載されている「中山道分間延絵図」では、このように描かれています。
史跡看板の建っている所の石垣は、「倉賀野河岸」の「帳場」跡と言われています。
「帳場」は、河岸を出入りする荷の帳簿付けをしていたのでしょう。
上図によると、石垣の残っている所は「須賀庄」の帳場で、道を挟んで「須賀長」と「須賀喜」の帳場となっています。
しかし、享保十六年(1731)の絵図では、「須賀庄」「須賀長」「須賀喜」は同じ側に並んでいて、「蔵」と書かれています。
「帳場」と「蔵」は違うものなのでしょうか、よく分かりませんが「蔵」と書かれているのが全部で八つあります。
「帳場跡」から中山道へ向けて戻ると、途中、二股に分かれます。
左が「牛街道」、右が「馬街道」です。
ところで、なぜ「馬街道」と「牛街道」に分かれているのか。
聞いた話によると、道が狭いのに牛の歩みは遅くて馬は追い抜くことができない、そこで馬はこの二股で分かれて違う道を通ったということだそうです。
二股を左に、つまり「牛街道」をずっといくと、「高札場跡」の前に出てきます。
ここは上町の問屋場があったところです。
問屋場で、荷物の仕分けをして各方面へ移送したわけです。
倉賀野宿の道は、なかなか合理的にできていたんですね。
歴史を辿ると、昔の人の知恵は本当にすごいと、感心させられることばかりです。
また、この道の先に「井戸八幡宮」があるので、「高崎宿・倉賀野宿往還絵図面」では「八幡道」となっていて、道の入口には鳥居が描かれています。
大きな鳥居だったので人々は「大門」(だいもん)と呼び、この辺一帯は、町名の「田屋町」よりも「大門」と言う方が通りがよかったそうです。
鳥居は安政三年(1856)の大火で焼けてしまいましたが、その礎石は昭和十年(1935)頃まで残っていたといいます。
そして、「倉賀野河岸」への道でもあるので「河岸道」とも呼ばれました。
中山道から250mほど進むと、右側に「井戸八幡宮」、そのすぐ先、左側の石垣の脇に史跡看板は建っています。
看板に掲載されている「中山道分間延絵図」では、このように描かれています。
史跡看板の建っている所の石垣は、「倉賀野河岸」の「帳場」跡と言われています。
「帳場」は、河岸を出入りする荷の帳簿付けをしていたのでしょう。
上図によると、石垣の残っている所は「須賀庄」の帳場で、道を挟んで「須賀長」と「須賀喜」の帳場となっています。
しかし、享保十六年(1731)の絵図では、「須賀庄」「須賀長」「須賀喜」は同じ側に並んでいて、「蔵」と書かれています。
「帳場」と「蔵」は違うものなのでしょうか、よく分かりませんが「蔵」と書かれているのが全部で八つあります。
「帳場跡」から中山道へ向けて戻ると、途中、二股に分かれます。
左が「牛街道」、右が「馬街道」です。
ところで、なぜ「馬街道」と「牛街道」に分かれているのか。
聞いた話によると、道が狭いのに牛の歩みは遅くて馬は追い抜くことができない、そこで馬はこの二股で分かれて違う道を通ったということだそうです。
二股を左に、つまり「牛街道」をずっといくと、「高札場跡」の前に出てきます。
ここは上町の問屋場があったところです。
問屋場で、荷物の仕分けをして各方面へ移送したわけです。
倉賀野宿の道は、なかなか合理的にできていたんですね。
歴史を辿ると、昔の人の知恵は本当にすごいと、感心させられることばかりです。
【馬街道と牛街道】
【史跡看板】