白衣大観音原型作者・森村酉三氏の胸像が、伊勢崎市宮郷公民館に建っています。
ここは、酉三氏を含め伊勢崎の名士・五人の胸像がずらっと並んでいるという、珍しい公民館です。
酉三氏の胸像は、昭和五十三年(1978)に日本画家の磯部草丘、養蚕学の荻原清治の胸像とともに建てられました。
酉三氏の生家は、ここから東へ直線距離で1kmほど行ったところにあります。
ご縁というのは実に不思議なもので、この7月に仕事先で偶然出会ったのが、森村家十代目・源五兵衛から分かれた最も古い分家、新蔵家の九代目という孝利さんでした。
伊勢崎の森村さんと聞いて、もしやと思ってお尋ねしたところ、これが図星でした。
酉三氏が生まれた家をご案内頂けるということで、日を改めて伺いました。
いやいや、立派なお屋敷です。
それもそのはず、森村本家は地方(じかた)代官を務めた旧家で、その建物は伊勢崎市の重要文化財に指定されています。
明治九年(1876)の改築で、慶応以前からの母屋の骨組みを残し、そこに伊勢崎藩主・酒井氏の陣屋遺構(享和元年/1801/築の書院と式台)を移築・増設したということで、手前の玄関がその式台だそうです。
式台を上がったところに、駒井甲斐守朝温の写真が飾ってありました。
不覚にも失念していたんですが、孝利さんに「朝温の子は、小栗上野介の養子になってるんですよ。」と言われて、思い出しました。
過去記事「八重の桜と小栗の椿」に書いたことがありました。
この時参考にした本では、朝温は徳川慶喜に従って静岡へ移り住んだと書かれていましたが、この説明板を見ると、連取村はかつての知行地として維新後も朝温へ米などを送っていたんですね。
小栗上野介もそうでしたが、駒井朝温もまた領民に慕われていたお殿様だったんでしょう。
10年ほど前まで住んでいたという母屋は、所々その息吹が感じられます。
奥の床の間には、白衣大観音の写真と小さな観音像が飾ってありました。
明治二十八年(1895)の「森村系譜」によれば、森村家の遠祖は鎌倉時代の建久四年(1193)、既に上野国那波の地頭であった五十嵐遠江守広茂という人だそうです。
徳川の御代になった文禄二年(1593)駒井甲斐守が所領の綱取(連取)郷を訪れた時、出迎役を仰せつかって郷内を案内したのが、五十嵐教貞だったそうです。
その時、甲斐守から「お前はどこから来たのだ。」と問われた教貞が、「森の向こうの村です。」と答えたことで、以降、「森村」と呼ばれるようになり姓を改めたという話を、孝利さんがしてくれました。
その五十嵐あらため森村教貞を初代とする、本家第十六代当主・連太の三男として生を受けたのが、森村酉三氏でした。
明治三十年(1897)酉年生まれの三男ということで、酉三と名付けられたということです。
ところで、ずっと気になっていたサックス奏者の森村恭一郎さんは、酉三さんの従妹・梓さんの子で、酉三さんから見れば従甥(いとこ甥)にあたるということが、この度やっと判明しました。
さてさて、記事が長くなりました。
次回は、酉三さんと白衣大観音についてのお話です。
ここは、酉三氏を含め伊勢崎の名士・五人の胸像がずらっと並んでいるという、珍しい公民館です。
酉三氏の胸像は、昭和五十三年(1978)に日本画家の磯部草丘、養蚕学の荻原清治の胸像とともに建てられました。
酉三氏の生家は、ここから東へ直線距離で1kmほど行ったところにあります。
ご縁というのは実に不思議なもので、この7月に仕事先で偶然出会ったのが、森村家十代目・源五兵衛から分かれた最も古い分家、新蔵家の九代目という孝利さんでした。
伊勢崎の森村さんと聞いて、もしやと思ってお尋ねしたところ、これが図星でした。
酉三氏が生まれた家をご案内頂けるということで、日を改めて伺いました。
いやいや、立派なお屋敷です。
それもそのはず、森村本家は地方(じかた)代官を務めた旧家で、その建物は伊勢崎市の重要文化財に指定されています。
明治九年(1876)の改築で、慶応以前からの母屋の骨組みを残し、そこに伊勢崎藩主・酒井氏の陣屋遺構(享和元年/1801/築の書院と式台)を移築・増設したということで、手前の玄関がその式台だそうです。
式台を上がったところに、駒井甲斐守朝温の写真が飾ってありました。
不覚にも失念していたんですが、孝利さんに「朝温の子は、小栗上野介の養子になってるんですよ。」と言われて、思い出しました。
過去記事「八重の桜と小栗の椿」に書いたことがありました。
この時参考にした本では、朝温は徳川慶喜に従って静岡へ移り住んだと書かれていましたが、この説明板を見ると、連取村はかつての知行地として維新後も朝温へ米などを送っていたんですね。
小栗上野介もそうでしたが、駒井朝温もまた領民に慕われていたお殿様だったんでしょう。
10年ほど前まで住んでいたという母屋は、所々その息吹が感じられます。
奥の床の間には、白衣大観音の写真と小さな観音像が飾ってありました。
明治二十八年(1895)の「森村系譜」によれば、森村家の遠祖は鎌倉時代の建久四年(1193)、既に上野国那波の地頭であった五十嵐遠江守広茂という人だそうです。
徳川の御代になった文禄二年(1593)駒井甲斐守が所領の綱取(連取)郷を訪れた時、出迎役を仰せつかって郷内を案内したのが、五十嵐教貞だったそうです。
その時、甲斐守から「お前はどこから来たのだ。」と問われた教貞が、「森の向こうの村です。」と答えたことで、以降、「森村」と呼ばれるようになり姓を改めたという話を、孝利さんがしてくれました。
その五十嵐あらため森村教貞を初代とする、本家第十六代当主・連太の三男として生を受けたのが、森村酉三氏でした。
明治三十年(1897)酉年生まれの三男ということで、酉三と名付けられたということです。
ところで、ずっと気になっていたサックス奏者の森村恭一郎さんは、酉三さんの従妹・梓さんの子で、酉三さんから見れば従甥(いとこ甥)にあたるということが、この度やっと判明しました。
さてさて、記事が長くなりました。
次回は、酉三さんと白衣大観音についてのお話です。
【宮郷公民館】
【旧森村邸】