2013年04月14日

八重の桜と小栗の椿(10)

寄る辺なき江戸に留まることもできず、小栗夫人一行は静岡を目指して再び旅を続けます。
静岡には、小栗家に養子となった又一忠道の実父・駒井甲斐守朝温(ともあつ)が、徳川慶喜に従って移り住んでいたからです。

「上毛及上毛人」の中で、早川珪村氏はこう記述しています。
三左衛門隨從し静岡に至り駒井家と交渉し、忠順の遺子幼少殊に女子なるを以て、又一忠道の實弟某をして假に小栗家を相續せしめ、將に斷絶に瀕せる家名を繼續するを得たり」

本当なら、養子として迎えた忠道小栗家を継ぐはずでしたが、西軍により高崎の牢屋敷で斬首されてしまいました。
三左衛門が交渉したというのは、遺児・クニ(国子)が結婚するまでの間、忠道の実弟・忠祥(たださち)に小栗家を仮に相続してもらい、ともかく家名断絶だけは避けたいということでした。
三左衛門の懇願により、相続は認められることとなり、辛うじて小栗家は断絶を免れたのです。

八重の桜と小栗の椿(10)そうこうする内、小栗夫人らの苦難な生活の様子が、三井の大番頭・三野村利左衛門の耳に届きます。

利左衛門は、駿河台の小栗家に仲間(ちゅうげん)として奉公したことがあり、それがきっかけで三井の大番頭にまで上り詰めた人物です。
※詳しくはこちらをどうぞ。
  三野村利左衛門

利左衛門は、東京深川三野村家別荘を、小栗夫人一家の住まいとして提供することを申し出ます。
もちろん、生活費一切の面倒も見ようというのでしょう。
中島三左衛門は大いに喜び、夫人らを深川まで護衛し、三野村利左衛門の手に送り届けました。

夫人らが住む家を確認して安心した三左衛門は、夫人らに別れを告げ、娘・さい小栗歩兵と共に、一年ぶりに故郷権田村へ帰ることができました。
権田村に戻った時の彼らの姿は、乞食同然であったといいます。
命令に依ったのでもなく、報酬を期待したのでもなく、数々の危険に身を晒しながら、夫人一行を護って困難な旅を続けた彼らの責任感の強さには、心底感服し、また深い感動を覚えます。

三野村利左衛門は明治十年(1877)57歳で亡くなりますが、その後も小栗夫人らは三野村家で面倒を見たようです。
しかし、その8年後の明治十八年(1885)、小栗夫人・みちは48歳の若さでこの世を去ります。
遺児・クニは、数えで18歳になっていました。

ひとり残されたクニを引き取ったのが、小栗上野介の従妹・アヤ子が嫁いでいた大隈重信でした。
そして、大隈重信夫妻が手はずを整え、前島密が媒酌人を引き受けて、20歳になったクニ矢野貞雄氏を婿に迎え、貞雄氏が小栗家第十四代の当主となります。
明治三十一年(1898)には、めでたく長男・又一が誕生し、小栗家の血筋が現在まで繋がっていくことになります。

八重の桜と小栗の椿(10)因みに小栗家第十七代となるのは、上野介の玄孫にあたる漫画家・小栗かずまた(本名・又一郎)氏です。

上毛新聞社発行の雑誌「上州風」2001秋号に、かずまた氏が倉渕村を訪れた記事が載っています。

その中に、こんな話が書かれていました。
かずまたさんが、小栗上野介を知ったのは中学生のとき。
埋蔵金についてテレビで騒がれていたころ、父親から『うちの先祖の話だぞ』と教えられたという。
そして、初めて来村した時に、終焉の地・倉渕村に碑があることを知った。」

かずまた氏は、こう語っています。
小栗上野介は、完璧なエリート。あらゆる才能に恵まれ過ぎたため嫉妬も多かったのだと思う。
村の人たちは小栗公のすごさを理解し遺族を守ってくれた。だからこそ、今の僕がいるんですね。遠い昔の出来事で実感はありませんが、感謝したいです。」

大河ドラマ「八重の桜」も、そろそろ戊辰戦争に入っていくようです。
どうぞ、小栗上野介の罪なき斬首と、夫人一行の苦難の逃避行のことも重ね合わせながら、ご覧くださいますようお願い致します。

これにて、「八重の桜と小栗の椿」一巻の終わりと致します。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。

八重の桜と小栗の椿(10)






同じカテゴリー(小栗上野介)の記事画像
例幣使街道 寄道散歩(5)
八重の桜と小栗の椿(8)
八重の桜と小栗の椿(7)
八重の桜と小栗の椿(6)
八重の桜と小栗の椿(5)
八重の桜と小栗の椿(4)
同じカテゴリー(小栗上野介)の記事
 例幣使街道 寄道散歩(5) (2014-04-06 08:23)
 八重の桜と小栗の椿(9) (2013-04-07 10:55)
 八重の桜と小栗の椿(8) (2013-03-31 21:03)
 八重の桜と小栗の椿(7) (2013-03-24 07:47)
 八重の桜と小栗の椿(6) (2013-03-10 09:33)
 八重の桜と小栗の椿(5) (2013-03-03 21:48)

Posted by 迷道院高崎 at 09:02
Comments(13)小栗上野介
この記事へのコメント
長い間、考証に基づく詳細な内容に、感謝いたします。

13,14日は、福島に行ってきましたが
福島県特に、鶴ヶ城周辺は、八重の桜の
テーマパークでした。
Posted by wasada49  at 2013年04月15日 07:52
>wasada49さん

鶴ヶ城に行かれましたか。
なるほど、テーマパークね。
わかります、わかります。

こういうブームには、尻馬と言われようが、金魚の糞と言われようが、乗るべきだと思います。
ですが高崎は、シャイというのか、疎いというのか、チャンスを物にする気がないようで・・・。
残念です!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年04月15日 19:36
興味深く拝読致しました。


この一連の記事をタカタイか広報に連載して、後世に残して欲しいです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年04月15日 19:50
>ふれあい街歩きさん

ありがとうございます!

私は、諸先輩方がご苦労されて調査されたことを、ほんの少しご紹介したに過ぎません。
何事も、結び付ければ高崎のPRとして使えるのに、と勿体なく思っただけで。

まだまだ興味深いことが、この高崎にはたくさん眠っているような気がします。
郷土の歴史って、ほんとうに面白いですねぇ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年04月15日 20:31
事実は小説より奇なりと
言われますが
埋もれた歴史を調べていくと
数奇な運命が
照らし出されて
現れるものなのですね。
それも
迷道院さんの地道で緻密な
検証のたまもの。
今後も期待しています。
Posted by いちじん  at 2013年04月17日 05:26
>いちじんさん

本当は、小栗夫人一行の辿った道を自分で歩かないといけなかったのでしょうが、そこまでの意気地もなく、恥ずかしい限りです。

あちこちの情報をつなげる程度しか私にはできませんが、そういう人間がいてもいいのではないかと、自己弁護の日々です(^^ゞ
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年04月17日 08:45
迷道院高崎様

いつも楽しく拝見させていただいております。
「八重の桜と小栗の椿」とうとう完結しましたが、毎回、次はどうなるか、待ちどおしく読ませてもらいました。

最近、岩波書店から、「小栗上野介忠順と幕末維新ー小栗日記を読む」(高橋敏著)
という本も出版されて、小栗上野介に対する関心も結構あるようですが、
なかなか世間一般にまで広がるまでにはなりません。

ライバルでもあった、勝海舟はだれでも知っている歴史上の人物になっていますが、
対する小栗の評価はあまり高くありません。
地元としては、残念なところです。

元禄時代、徳川綱吉の側近、寵臣の第一であった柳澤吉保は有名で、小説、テレビ、映画で何度も取り上げられいますが
、第二の寵臣であった、高崎大河内家初代主、
大河内(松平)輝貞については、ほとんど取り上げられることはありません。
小姓から七万石の大名まで出世し、吉宗の時にも重用された、それなりの人物でしたのに、あまり注目されてはないようです。
どうも、世間の見方というのは、一方に傾くきらいがあるようです。

これからも、埋もれた郷土の人物を発掘して、アピールしていただきようお願いいたします。
Posted by 雀の子  at 2013年04月17日 13:17
>雀の子さん

小栗上野介については、けっこう昔から著名作家による本が発行されていますし、東善寺はじめ倉渕の方々による顕彰活動も行われているのに、なかなか勝海舟ほどの認知度が得られませんね。

それもこれも、高崎に歴史博物館がないということに起因するんじゃないでしょうか。
高崎市民が郷土の歴史を知るチャンスが、あまりにも少なすぎますよね。

私も、自分が面白いと思った事しか記事に出来ませんが、またいろいろ教えて下さい。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年04月17日 19:08
わかりやすい文章で、たのしく読ませていただきました。

小栗上野介夫人らを守りぬいた中島三左衛門や村人の行いは、高崎人・上州人の誇りとして語り伝えたいですね。

小栗クニが結婚してホッとしていますが、媒酌人は前島密と聞いています。
 日本の郵便制度を創始した前島ですが、幕末に小栗上野介との交流もあったようですし、幕末に小栗上野介が郵便制度(この言葉はなかったので、書信館といった)設立を提案していましたから、喜んで媒酌人を務めたことでしょう。
Posted by 黙魚  at 2013年06月14日 07:11
>黙魚さん

ご訪問、ありがとうございます。

高崎市は、平成25年度を目標に、倉渕に「小栗の里」というのを整備するようです。
小栗上野介と権田村の人々のことが、広く知られるようになることを願っています。

大隈重信が上野介の遺児クニの媒酌をしたという話は、小板橋良平氏の著書によるものですが、前島密が媒酌人だったのですか?
それは知りませんでした。
心がけて、他の資料も探してみます。

情報、ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年06月14日 20:20
>迷道院高崎さん


8月16日付タカタイ紙連載の「高崎人物図鑑」は小栗忠順でしたが、作者の人形制作手記の中で婦人の会津への亡命とその後に触れられておりました。

この記事のことを改めて思い出しました。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年08月17日 17:44
>ふれあい街歩きさん

あー、嬉しいです!

人形を作った清水永寿さんは、小栗夫人と逆に秋山郷から野反湖まで踏破されたんですね。
それもすごいことです。

いろんな形で郷土の歴史や人物を紹介してもらうのは、とてもよいことだと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月17日 19:14
>黙魚さん

いつぞやは、コメントありがとうございました。

たまたま、東善寺のHPを見ていましたら、上野介の遺児クニの媒酌人について書かれていました。
それによると、「大隈重信夫妻が矢野貞雄(作家矢野龍渓の弟)を婿とする手はずを整え、媒酌人を前島密が引き受けて、結婚式をあげている。」とのことです。

黙魚さんの仰るとおりでした。
勉強不足を恥じ入ります。
ご教示、ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年09月22日 10:02
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
八重の桜と小栗の椿(10)
    コメント(13)