昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人」第153号に、故人早川圭村として「小栗父子の墓所に就て」という一文が掲載されています。
「小栗父子の墓所に就て」という表題ではあるものの、その内容は異なる3つの話しになっており、その内のひとつが、これからご紹介する「高崎本町に伝わる、味噌樽に隠された小栗上野介の二分金」の話しです。
では、抜粋でお読みください。
小栗上野介忠順は慶応四年(1868)閏四月六日(太陽暦:5月27日)水沼河原で斬首され、養嗣子・又一もまた弁明のために赴いた高崎城下で、閏四月七日に斬首されます。
東善寺を襲った暴徒同様、新政府軍も、上野介が江戸から運んだ多額の軍資金が寺に隠されていると考えたようです。
上野介斬首後ただちに軍資金の隠し場所と思しきところを探索したものの発見する事はできず、代わりに鉄砲や刀などの軍装品、珍品などを押収して、上野介の首級とともに高崎の安国寺に運び込みます。
おそらくそれらの珍品は、高崎に駐屯していた大音龍太郎など新政府軍の者たちが私したのでしょう。
さらに、東善寺に残した上野介の家財道具・雑物は、払い下げて金に換えようと考えます。
この払い下げに参加したひとりが、高崎宿本町の肴渡世・飛騨屋岩崎源太郎です。
源太郎は天保六年(1835)生まれということなので、この時、33歳でした。
源太郎は、勘定奉行までした小栗上野介の家財・雑物と聞いて、さぞかし珍品があるだろうと期待していたのでしょうが、目ぼしいものは既に新政府軍に持ち去られた後でした。
それでも、味噌なら店で売ることもできるだろうと、数十樽を買い取って帰ってきたのです。
もちろん、その味噌樽の中に二分金が隠されていようとは、夢にも思わずにです。
権田村から戻ってきた源太郎の店に、近くの蝋燭屋・清水元七が早速やってきます。
「殿様が食ってた江戸の味噌じゃ、さぞうまかんべえ。」と思ったのでしょう、二樽買い込んで帰ります。
その時の状況を、早川珪村はこう記しています。
元七が帰った後、源太郎も味噌を掬い出そうとして初めて、中に隠し込まれた二分金を発見したようです。
そこへ、先ほどの清水元七が「あと数樽売ってくれ。」とやってきます。
元七も味噌樽の中の二分金を見つけたのに違いありません。
すでにその理由を知る源太郎は、何と言って断ったのか分かりませんが、求めに応じなかったという訳です。
その後の源太郎について珪村は、「俄かに富有となりたるも、・・・數年ならずして亦元の赤貧となりたり」と言っています。
明治十八年(1885)発行「上州高崎繁栄勉強一覧」の上位に、「本丁(町)魚 飛彈屋源太郎」の名が見えます。
思いがけず手に入れた上野介の二分金が、家業を大きくする資金となったのでしょうか。
二分金が通用したのは、明治七年(1874)までだったそうですが。
さらに時を経た明治三十年(1897)発行の「高崎繁昌記」には、岩崎源太郎の「飛騨屋」の他に2軒の「飛騨屋」が登場します。
きっと、支店か暖簾分けをした店なんでしょうね。
こうしてみると、珪村のいう「數年ならずして亦元の赤貧となりたり」というのは、どこまで真実なのか分からなくなります。
実は、岩崎源太郎は明治十九年(1886)52歳で他界し、赤坂町の恵徳寺に葬られています。
後継ぎのいなかった源太郎は、越後で農業をしていた甥の森田増吉を養子に迎え、二代目源太郎として店を相続させていたのです。
ですので、明治三十年の「高崎繁昌記」に載っている岩崎源太郎は、二代目ということになります。
しかし、明治三十七年(1904)発行の「群馬縣榮業便覽」になると、岩崎源太郎の名前は見えなくなります。
二代目・源太郎も、明治三十三年(1900)に50歳の若さで急逝しているからです。
田原金次郎と米木常吉は引き続き塩魚・乾物を商っていますが、「飛騨屋」の屋号は書かれていません。
本家がなくなって、そのまま屋号を使う訳にいかなかったのかも知れません。
それにしても、早川珪村はなぜこの一文を生前に投稿しなかったのでしょうか。
「上毛及上毛人」主宰の豊国覺堂が、文末に追記したこの一文が、何となくその理由を示唆しているような気がします。
相当前に投稿されていたことが分かります。
何事も綿密な取材を行う珪村のことですから、きっと生き証人への聞き取りも重ねて投稿したことでしょう。
にもかかわらず、覺堂等編集者が話し合いをして、発表を控えたという風にとれます。
当時まだ実在する関係者への配慮があったのかも知れません。
あるいは、推測を含む内容が、常に検証を重んじる珪村の名を傷付けることを、危惧したのかも知れません。
その珪村も亡くなり、時代も昭和に入ってほとぼりも冷めたということで、抑えていた投稿文の発表に踏み切ったのではないでしょうか。
いずれにしても、あまり知られていないこの話、後世に語り継ぐことも必要だと思いました。
さて、次回からはまた、例幣使街道の散歩に戻るとしましょうか。
「小栗父子の墓所に就て」という表題ではあるものの、その内容は異なる3つの話しになっており、その内のひとつが、これからご紹介する「高崎本町に伝わる、味噌樽に隠された小栗上野介の二分金」の話しです。
では、抜粋でお読みください。
「 | 小栗父子の處斷せらるゝや所有物品は官軍の占領する所となり、家具その他の物品は權田村にて賣却せられたるが、高崎市本町三丁目飛彈屋(ひだや)事(こと)岩崎源太郎は家具の一部と味噌數十樽とを買取りたるに、其の味噌樽の底に無數の二分金が納めありたる爲め、俄かに富有となりたるも小栗の爲に一回の追善供養をも修せざりしと云へるが、其の後奇禍屢々(しばしば)ありて數年ならずして亦(また)元の赤貧となりたり」 |
小栗上野介忠順は慶応四年(1868)閏四月六日(太陽暦:5月27日)水沼河原で斬首され、養嗣子・又一もまた弁明のために赴いた高崎城下で、閏四月七日に斬首されます。
東善寺を襲った暴徒同様、新政府軍も、上野介が江戸から運んだ多額の軍資金が寺に隠されていると考えたようです。
上野介斬首後ただちに軍資金の隠し場所と思しきところを探索したものの発見する事はできず、代わりに鉄砲や刀などの軍装品、珍品などを押収して、上野介の首級とともに高崎の安国寺に運び込みます。
おそらくそれらの珍品は、高崎に駐屯していた大音龍太郎など新政府軍の者たちが私したのでしょう。
さらに、東善寺に残した上野介の家財道具・雑物は、払い下げて金に換えようと考えます。
この払い下げに参加したひとりが、高崎宿本町の肴渡世・飛騨屋岩崎源太郎です。
源太郎は天保六年(1835)生まれということなので、この時、33歳でした。
源太郎は、勘定奉行までした小栗上野介の家財・雑物と聞いて、さぞかし珍品があるだろうと期待していたのでしょうが、目ぼしいものは既に新政府軍に持ち去られた後でした。
それでも、味噌なら店で売ることもできるだろうと、数十樽を買い取って帰ってきたのです。
もちろん、その味噌樽の中に二分金が隠されていようとは、夢にも思わずにです。
権田村から戻ってきた源太郎の店に、近くの蝋燭屋・清水元七が早速やってきます。
「殿様が食ってた江戸の味噌じゃ、さぞうまかんべえ。」と思ったのでしょう、二樽買い込んで帰ります。
その時の状況を、早川珪村はこう記しています。
「 | 其の時、同町の蠟燭淸水事(こと)淸水元七も飛彈源より味噌二樽の分買爲したるに、其のなかより巨多の二分判を發見せるを以て猶數樽の買受方を申込みたるも、飛彈源方にても已(すで)に二分判の在ることを發見したる後なれば需(もと)めに應ぜざりしと云へるが、淸水元七の家も不幸續きにて高崎にも住み難くなり東京に出でたる由なるが、今は如何なりしや知る人もなきに至れり。」 |
元七が帰った後、源太郎も味噌を掬い出そうとして初めて、中に隠し込まれた二分金を発見したようです。
そこへ、先ほどの清水元七が「あと数樽売ってくれ。」とやってきます。
元七も味噌樽の中の二分金を見つけたのに違いありません。
すでにその理由を知る源太郎は、何と言って断ったのか分かりませんが、求めに応じなかったという訳です。
その後の源太郎について珪村は、「俄かに富有となりたるも、・・・數年ならずして亦元の赤貧となりたり」と言っています。
明治十八年(1885)発行「上州高崎繁栄勉強一覧」の上位に、「本丁(町)魚 飛彈屋源太郎」の名が見えます。
思いがけず手に入れた上野介の二分金が、家業を大きくする資金となったのでしょうか。
二分金が通用したのは、明治七年(1874)までだったそうですが。
さらに時を経た明治三十年(1897)発行の「高崎繁昌記」には、岩崎源太郎の「飛騨屋」の他に2軒の「飛騨屋」が登場します。
きっと、支店か暖簾分けをした店なんでしょうね。
こうしてみると、珪村のいう「數年ならずして亦元の赤貧となりたり」というのは、どこまで真実なのか分からなくなります。
実は、岩崎源太郎は明治十九年(1886)52歳で他界し、赤坂町の恵徳寺に葬られています。
後継ぎのいなかった源太郎は、越後で農業をしていた甥の森田増吉を養子に迎え、二代目源太郎として店を相続させていたのです。
ですので、明治三十年の「高崎繁昌記」に載っている岩崎源太郎は、二代目ということになります。
しかし、明治三十七年(1904)発行の「群馬縣榮業便覽」になると、岩崎源太郎の名前は見えなくなります。
二代目・源太郎も、明治三十三年(1900)に50歳の若さで急逝しているからです。
田原金次郎と米木常吉は引き続き塩魚・乾物を商っていますが、「飛騨屋」の屋号は書かれていません。
本家がなくなって、そのまま屋号を使う訳にいかなかったのかも知れません。
それにしても、早川珪村はなぜこの一文を生前に投稿しなかったのでしょうか。
「上毛及上毛人」主宰の豊国覺堂が、文末に追記したこの一文が、何となくその理由を示唆しているような気がします。
「 | 覺堂曰、此稿は大正四五年の頃になりしものなるべし。 筆者(珪村)が小栗研究に没頭せしは明治四十二三年の頃よりと記憶す。當時吾等と數々談し合ひたる事あるなり。」 |
相当前に投稿されていたことが分かります。
何事も綿密な取材を行う珪村のことですから、きっと生き証人への聞き取りも重ねて投稿したことでしょう。
にもかかわらず、覺堂等編集者が話し合いをして、発表を控えたという風にとれます。
当時まだ実在する関係者への配慮があったのかも知れません。
あるいは、推測を含む内容が、常に検証を重んじる珪村の名を傷付けることを、危惧したのかも知れません。
その珪村も亡くなり、時代も昭和に入ってほとぼりも冷めたということで、抑えていた投稿文の発表に踏み切ったのではないでしょうか。
いずれにしても、あまり知られていないこの話、後世に語り継ぐことも必要だと思いました。
さて、次回からはまた、例幣使街道の散歩に戻るとしましょうか。
(参考図書:河野正男氏著「小栗上野介をめぐる秘話」)