伊奈備前守忠次と江原源左衛門重久の間に立って「備前堀(滝川)」開鑿に協力した、与六分の土豪・和田與六郎、その屋敷跡がここだそうです。
現在は、「群馬県立玉村高等学校」になっています。
嬉しいのは、校門を入ってすぐのところに史跡の説明看板を立ててくれていることです。
和田與六郎の祖は源頼朝の重臣・和田義盛の末裔で、建保元年(1213)の和田合戦で敗北してこの鞘田郷に潜居したと言われています。
高崎の和田城を築いたとされる和田義信※も、和田合戦に敗れて上野国に逃れて来たと言われているので、同族なのでしょう。
因みに、「与六屋敷」の和田氏が早川と改姓したのは、江戸時代初めのようです。
また、ここ与六分も小栗上野介の知行地でありました。
「与六屋敷」の跡地に、玉村高等学校の前身・群馬県立佐波農業高等学校玉村分校が新校舎を建てて全面移転したのは、昭和二十七年(1952)です。
その頃ここは一面の畑だったということですから、すでに「与六屋敷」は解体撤去されていたことになります。
「与六屋敷」がいつまで残っていたのか定かではありませんが、ここに明治末年の「与六屋敷見取図」というのがあります。
この図の中に、「愿次郎家跡」と書かれている所があります。
愿次郎とは、「例幣使街道 寄道散歩(4)」でご紹介した、あの早川珪村こと早川愿次郎です。
愿次郎の伯母・べんも、「与六屋敷」から分かれた早川太平家の与太郎重時に嫁いでいました。
べんにはふくという長女がいましたが、生まれた時に股関節脱臼を起こして、足が不自由でした。
重時は、足が不自由でも座ってできる商売ということで、ふくに質屋をさせることにします。
そこで、「与六屋敷」の外堀外に二階建ての母屋と二階建ての質蔵、そして平造りの土蔵を建てて、ふくを別家に出したのです。
ふくは与作という婿との間に一女をもうけ、津留と名付けます。
この津留に迎えた婿が、愿次郎、後の早川珪村だった訳です。
愿次郎は8年ほど住んだだけでこの家屋敷を売り払い、一家そろって高崎へ移り住んでしまうのですが、後にその高崎で出会うのが本町三丁目の飛騨屋源太郎に関わる、小栗上野介の機密費の話でした。 → ◇例幣使街道 寄道散歩(5)
ところがです。
「与六屋敷」にも、実は小栗上野介の機密費が秘かに隠されていたということは、その門前に8年間住んでいた愿次郎も知らなかったようです。
「与六屋敷」の機密費については、河野正男氏の著書「小栗上野介をめぐる秘話」に書かれているのみです。
それにしても、上野介の数ある知行地の中でなぜ「与六屋敷」に・・・ということですが、河野氏はこう分析します。
私は、これにもうひとつ付け加えたいと思います。
それは、上野介の知行地の中では小さな村だったから、ということです。
小栗又一の墓がある隣の下斉田村は石高170石、対して与六分は88石です。
因みに上野介が土着しようとした権田村は375石です。
上野介が軍資金を隠すとすれば、当然石高の大きい有力知行地と考えるのが自然です。
当時、新政府もそう考えたようで、下斉田村名主・田口平八郎宅へ抜身の槍を引っ提げて押し入り、上野介の金子や荷物のありかを問い質したということが記録に残っています。
「与六屋敷」にはそのような話が残っていないところをみると、まさかこんな小さな村に、と考えたのではないかと思われます。
「与六屋敷」の機密費がその後どうなったかは、河野氏の著書をお読み頂きたいと思います。
さて、倉賀野の小栗上野介埋蔵金の話しからスタートした「例幣使街道 寄り道散歩」シリーズは、ここ玉村「与六屋敷」の機密費の話で締めたいと思います。
高崎の例幣使街道にも、面白いところがあるということがお伝えできたなら、幸いです。
どうぞ、お散歩道の一つに加えて頂けますように。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。
現在は、「群馬県立玉村高等学校」になっています。
嬉しいのは、校門を入ってすぐのところに史跡の説明看板を立ててくれていることです。
和田與六郎の祖は源頼朝の重臣・和田義盛の末裔で、建保元年(1213)の和田合戦で敗北してこの鞘田郷に潜居したと言われています。
高崎の和田城を築いたとされる和田義信※も、和田合戦に敗れて上野国に逃れて来たと言われているので、同族なのでしょう。
※ | (過去記事「鎌倉街道探訪記(8)」に、ちょこっと出てきます。) |
また、ここ与六分も小栗上野介の知行地でありました。
「与六屋敷」の跡地に、玉村高等学校の前身・群馬県立佐波農業高等学校玉村分校が新校舎を建てて全面移転したのは、昭和二十七年(1952)です。
その頃ここは一面の畑だったということですから、すでに「与六屋敷」は解体撤去されていたことになります。
「与六屋敷」がいつまで残っていたのか定かではありませんが、ここに明治末年の「与六屋敷見取図」というのがあります。
この図の中に、「愿次郎家跡」と書かれている所があります。
愿次郎とは、「例幣使街道 寄道散歩(4)」でご紹介した、あの早川珪村こと早川愿次郎です。
愿次郎の伯母・べんも、「与六屋敷」から分かれた早川太平家の与太郎重時に嫁いでいました。
べんにはふくという長女がいましたが、生まれた時に股関節脱臼を起こして、足が不自由でした。
重時は、足が不自由でも座ってできる商売ということで、ふくに質屋をさせることにします。
そこで、「与六屋敷」の外堀外に二階建ての母屋と二階建ての質蔵、そして平造りの土蔵を建てて、ふくを別家に出したのです。
ふくは与作という婿との間に一女をもうけ、津留と名付けます。
この津留に迎えた婿が、愿次郎、後の早川珪村だった訳です。
愿次郎は8年ほど住んだだけでこの家屋敷を売り払い、一家そろって高崎へ移り住んでしまうのですが、後にその高崎で出会うのが本町三丁目の飛騨屋源太郎に関わる、小栗上野介の機密費の話でした。 → ◇例幣使街道 寄道散歩(5)
ところがです。
「与六屋敷」にも、実は小栗上野介の機密費が秘かに隠されていたということは、その門前に8年間住んでいた愿次郎も知らなかったようです。
「与六屋敷」の機密費については、河野正男氏の著書「小栗上野介をめぐる秘話」に書かれているのみです。
「 | 当時の小栗上野介に関して厳しい詮索の新政府の通達もあり、早川与六家では機密費のことは世間をはばかり文字通り極秘としていたらしく、家族以外誰も知る人はなかった。(略) |
偶然にもこのたび、「早川太兵衛家」子孫の早川不二男氏と出会うことが出来て、同氏から贈られた「早川家秘譜」によって初めて与六分村の早川与六家にも機密費があったことを知った。」 |
それにしても、上野介の数ある知行地の中でなぜ「与六屋敷」に・・・ということですが、河野氏はこう分析します。
1. | 「与六屋敷」から利根川まで、舟で年貢米を運ぶための堀割りが通じていて、夜間密かに荷を運ぶには馬や荷車と違って音もせず、しかも堀は地表より低いので人目につき難い。 | |||
2. | いったん屋敷内に運び込んでしまえば、二重の環濠と土堤に囲まれた「与六屋敷」は、外からは容易に覗きにくい。 |
私は、これにもうひとつ付け加えたいと思います。
それは、上野介の知行地の中では小さな村だったから、ということです。
小栗又一の墓がある隣の下斉田村は石高170石、対して与六分は88石です。
因みに上野介が土着しようとした権田村は375石です。
上野介が軍資金を隠すとすれば、当然石高の大きい有力知行地と考えるのが自然です。
当時、新政府もそう考えたようで、下斉田村名主・田口平八郎宅へ抜身の槍を引っ提げて押し入り、上野介の金子や荷物のありかを問い質したということが記録に残っています。
「与六屋敷」にはそのような話が残っていないところをみると、まさかこんな小さな村に、と考えたのではないかと思われます。
「与六屋敷」の機密費がその後どうなったかは、河野氏の著書をお読み頂きたいと思います。
さて、倉賀野の小栗上野介埋蔵金の話しからスタートした「例幣使街道 寄り道散歩」シリーズは、ここ玉村「与六屋敷」の機密費の話で締めたいと思います。
高崎の例幣使街道にも、面白いところがあるということがお伝えできたなら、幸いです。
どうぞ、お散歩道の一つに加えて頂けますように。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。
【「与六屋敷」跡】