
この環濠屋敷だけが残ったのは、規模が比較的大きかったことと、昭和三十二年(1957)まで田口一族が一年に一度の楽しみとして「ケイ取り」※をしていたことによるそうです。
※ | 掻い掘り、換え掘り、けえぼりとも。池や堀の水をくみ出して干すこと。その時に生息する魚を獲る。 |
田口氏の祖先とされる斉田氏は「鞘田」「左枝」とも表記され、この斉田地域も平安時代から「鞘田」と呼ばれる、刀の鞘のように長細い地域だったといわれます。
屋敷を取り囲む環濠は防禦の為もあるのでしょうが、農業用貯水池としての機能を果たしていたようです。
農業用水路が整備された昭和五十八年(1983)からは、防火用水として位置づけられています。

先代の母屋は、明治三十一年(1898)に建てられた、3つの越屋根を持つ本格的な養蚕建屋であったそうで、蔵も、正面に見える石蔵の南に1棟、その北に2棟あったということです。

「阿弥陀堂」の東150mほど、関越道のアンダーパスになっている所にあったそうです。
かつてはここに大きな梅の木があり、その梅の木に抱きかかえられるようにあった観音像は、「梅の木観音」とか「木の股観音」と呼ばれて多くの人に親しまれていたといいます。
明治初年の廃仏毀釈によって、現在の「観音堂」の敷地に移されました。
その「観音堂」に安置されていたのは、「聖観世音菩薩」像だそうです。
堂の改修前、煤が付着して真っ黒になっていた観音像を調べてみると、台座の裏に室町時代後期の大仏師・田中典部の銘が読み取れたとのことです。
平成二十三年(2011)堂の新築にあたって、慈眼寺の吉井良弘住職が無償で観音像をクリーニングに出してくれたお蔭で、作った当時の金色に光り輝く姿を取り戻したそうですが、あまりにも金ピカになり過ぎたので、少し色が落ち着いてから堂に戻すんだ、と田口さんが仰っていました。

例の、「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱の経緯についてお聞きしたい衝動を、必死に堪えていたのですが、田口さんの方から話を切り出してくださいました。
お話しを正確に伝える必要があるので、田口さんがお書きになった資料から引用させて頂きます。
「 | 阿弥陀堂入口にある小栗父子の墓を示す石柱は、又一忠道が斉田に葬られているのは確かだが、義父の小栗は埋葬されていないので奇異な感じを受ける人がいると思います。 |
確かに上野介の石塔はありません。しかし、想像し考えてみて下さい。幕末の時代にあのような悲劇的な死に方をした親子を、揃って供養しないとしたらおかしなことになるのではないでしょうか。 |
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この標柱には、当時の人々の上野介親子への哀悼の気持ちが現れているといっても過言ではないのです。 | |
本当でしたら、堂々と偉人を讃え石塔ないしは顕彰碑を建立しても良いのではないかと思います。 |
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したがって、東善寺には忠道の亡骸を埋葬してないにもかかわらず忠道の石塔も祀られているのも頷ける訳です。」 |

その思いを表したものが、田口家の庭に建っています。
平成十六年(2004)小栗上野介没後135年を記念して、田口さんが建立した歌碑です。

こんな風に書いてあるようです。(あってるかなぁ。)
丹宇呂久乃濱邊まで
異人らも多くま可り支天以と
別を於しむさま奈れ者
心あ里天ゑ三毛
加久や志多わまし神乃
三國の臣奈礼者古所
忠順
万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のため、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、監察・小栗豊後守忠順を代表とした遣米使節団が派遣されました。
米国で大歓迎を受け、無事任務を果たした使節団がニューヨークのホテルを出てマンハッタンの港に着くまで、道々に多くのニューヨーク市民が集まってきて、船が港を出る時には日の丸の小旗を振って別れを惜しんだそうです。
碑文の和歌は、この様子に感激した小栗忠順が詠んだもので、現在唯一残っている忠順直筆の書だとか。
たまたま、村垣の手帳の中に書き残されていたそうです。
田口さんに読み方を教えて頂きました。
にうよろく(ニューヨーク)の浜辺まで
異人らも多くまかり来て
いと別れを惜しむ様なれば
心ありて
えみ(笑み)もかくや したわ(慕わ)まし
神の御国の 臣なればこそ
この石碑建立を見ても、田口さんの小栗上野介への思いの強さが分かるでしょう。

飯嶋仲秋・・・?

もう5年も前の話ですが、倉賀野の安楽寺で見た新「倉賀野八景」の作者が、飯嶋仲秋氏だったんです。
田口さんにお尋ねすると、お父上だそうです。
養子に入ったんだけど、前の苗字を使っていたということでした。
いやー、またまた不思議なつながりを感じながら、感謝しつつ田口家をおいとまいたしました。