矢島八郎は、大正十年(1921)九月七日、七十二歳でこの世を去ります。
その葬儀の様子が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に記されています。
その葬列は、前列がすでに大信寺に達しても、後列はまだ新(あら)町の私邸を離れなかったそうで、式場を閉じた時は午後六時になっていたといいます。
たぶん、こういうルートを通ったのでしょう。↓
そして、
とあります。
菩提寺の善念寺に葬られたんじゃないんですね。
では、この「下和田町の墓地、胡桃塚」とはどこでしょう。
昭和四十八年(1973)発行の田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」に、「クルミ塚」として載っていました。
この文面から推測すると、現在は「くるみ塚児童公園」になっているここがそうでしょう。↓
そういえば、もう5年も前になりますが、「鎌倉街道探訪記」で「くるみ塚児童公園」前を通ったことがあります。
でもその時、矢島八郎の墓はおろか、墓地にも気づきませんでした。
もういちど「くるみ塚児童公園」へ行って、それらしい痕跡を探しましたが見つかりません。
もう少し東へ行ったところにある「城南児童公園」付近に、かつて「キリスト教墓地」があったという話を思い出して、そこへも行ってみましたが見あたりません。
また「くるみ塚児童公園」へ戻ると、ちょうどご夫妻がお庭に出ていたので、聞いてみました。
「あのー、すみません。昔この辺に矢島八郎のお墓ってありましたか?」
「あー、あったよね、おとうさん。」
「うん、入口って書いた石の柱も建ってたんだよ。」
「新しい道ができて、今は何も残ってないよ。」
ということでした。
「くるみ塚児童公園」は昭和四十四年(1969)完成となっていますので、「高崎の名所と伝説」の発行年より前なのですが、きっと記事はもっと前に書かれたものなのでしょう。
しかし、矢島八郎の墓はどこへ行っちゃったんでしょう。
菩提寺の善念寺にも、葬儀を行ったという大信寺にも、墓が移された風はありません。
そこで思いついたのが、高崎の歴史的人物のお墓ならこの人に聞けと言われる、中村茂先生です。
メールで問い合わせると即座に、「八幡霊園内です。キリスト教墓地の東並び・・・。」というご返事を頂きました。
おかげさまで、やっと矢島八郎のお墓と対面できることになるのですが、そのご報告はまた次回。
その葬儀の様子が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に記されています。
「 | 十一日午後三時を以て霊柩粛々新(あら)町の邸を出づ。 |
同家は市内紺屋町善念寺の檀頭なるも同寺は手狹に付、通町大信寺に於て葬儀を執行することとなり・・・(略) |
「 | 新(あら)町より連雀町、堰代町を經て |
「 | 本町に出で、九蔵町田町より中紺屋町善念寺前を通り、夫れより通町大信寺に入る。 |
流石に廣き同寺境内も到底會葬者全部を容るゝ能はず、門前に天幕を張りて受附と爲したり。會葬者の數無慮一萬と號す、實に高崎市空前の盛儀なりき。」 |
その葬列は、前列がすでに大信寺に達しても、後列はまだ新(あら)町の私邸を離れなかったそうで、式場を閉じた時は午後六時になっていたといいます。
たぶん、こういうルートを通ったのでしょう。↓
そして、
「 | 夫れより更に行列を整え、八島町に出で南町を經て下和田町の墓地に達す。 |
墓地は約三百坪の面積にて周圍に堤を廻らし、東北方に一の塚あり。塚上には胡桃樹の老木一株あり、無数の若松其翠色を競ふ。塚の西方に墳墓を設く。(略) | |
茲に翁が生前の遺旨を奉して和田岡の淸境に浄土の墳墓を相し、塚を胡桃塚と呼び翁の靈骸を収め、以て永劫に香華を絶たざらんことを誓ふ。」 |
菩提寺の善念寺に葬られたんじゃないんですね。
では、この「下和田町の墓地、胡桃塚」とはどこでしょう。
昭和四十八年(1973)発行の田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」に、「クルミ塚」として載っていました。
「 | クルミ(胡桃)塚は下和田町にある。 |
烏川によってつくられた断崖にのぞみ、直下は高崎の総合運動場である。塚という名があるくらいで、古くは古墳時代の古墳があった。(略) | |
竜見町から下和田を通り、城南小学校へ行く途中、右側に石の標柱が「矢島八郎翁墓入口」を標示している。「南町有志」が立てたものである。 | |
この角から小路を人家につっかけた南隣が墓地入り口の門になっており、そこの石柱には、右に「矢島宗敏翁墓所通用門」、左に「昭和十一年八月十一日、胡桃塚」と刻まれている。 | |
その塚という字の下には、西へ四十五歩、右折十五歩と、はなはだくわしく書かれている。宗敏というのは矢島八郎のことである。」 |
この文面から推測すると、現在は「くるみ塚児童公園」になっているここがそうでしょう。↓
そういえば、もう5年も前になりますが、「鎌倉街道探訪記」で「くるみ塚児童公園」前を通ったことがあります。
でもその時、矢島八郎の墓はおろか、墓地にも気づきませんでした。
もういちど「くるみ塚児童公園」へ行って、それらしい痕跡を探しましたが見つかりません。
もう少し東へ行ったところにある「城南児童公園」付近に、かつて「キリスト教墓地」があったという話を思い出して、そこへも行ってみましたが見あたりません。
また「くるみ塚児童公園」へ戻ると、ちょうどご夫妻がお庭に出ていたので、聞いてみました。
「あのー、すみません。昔この辺に矢島八郎のお墓ってありましたか?」
「あー、あったよね、おとうさん。」
「うん、入口って書いた石の柱も建ってたんだよ。」
「新しい道ができて、今は何も残ってないよ。」
ということでした。
「くるみ塚児童公園」は昭和四十四年(1969)完成となっていますので、「高崎の名所と伝説」の発行年より前なのですが、きっと記事はもっと前に書かれたものなのでしょう。
しかし、矢島八郎の墓はどこへ行っちゃったんでしょう。
菩提寺の善念寺にも、葬儀を行ったという大信寺にも、墓が移された風はありません。
そこで思いついたのが、高崎の歴史的人物のお墓ならこの人に聞けと言われる、中村茂先生です。
メールで問い合わせると即座に、「八幡霊園内です。キリスト教墓地の東並び・・・。」というご返事を頂きました。
おかげさまで、やっと矢島八郎のお墓と対面できることになるのですが、そのご報告はまた次回。
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